第三十三話 灰色の夜の記憶、そして奪われた温もり
文乃は驚愕に目を見開いたまま、隣に立つ少女を振り返った。
「エマ、あなた……どうしてこの文字が読めるの? これは、専門の教育を受けた学者でも解読が困難なはずなのに」
問いかけられたエマは、少しだけ誇らしげに、けれど寂しげにアメジストの瞳を伏せた。
「……パパとママが、教えてくれたの。私の家には、遠い昔から受け継いできた『不思議な文字で書かれた本』があって、それは何よりも大切なものだからって。毎日、寝る前に読み聞かせてくれたから……だから」
文乃は雷に打たれたような衝撃を受けた。自分の持つ「翻訳スキル」は、あくまでシステム的な処理に過ぎない。けれど目の前の少女は、言葉の背景にある歴史や、親から子へと受け継がれた愛と共に、その意味を真に理解している「本物の翻訳者」なのだ。
そして何より、文乃の心を震わせたのは別の事実だった。
(この王立図書館以外にも、古文書が存在している……。そして、それを読み継いできた一族がいる……)
世界にはまだ、自分の知らない「言葉」と「物語」が眠っている。
その事実に、文乃の胸の奥で、抑えきれないほどの高揚感が熱く脈打ち始めた。
(……ああ、そうか。この広い世界のどこかに、まだ見ぬ物語が、誰にも読まれぬまま眠る本たちが、他にもたくさんあるんだ)
想像するだけで、視界がぱあっと開けるような感覚に陥る。この閉ざされたリュクサール王国の、それも王立図書館という場所にある本だけが古文書の全てだと思い込んでいた。けれど、実際は違う。エマの家系がそうであったように、人知れず大切に守られ、時を越えてきた「声」が、砂漠の向こうや、深い森の奥、あるいは名もなき異国の古びた棚に、静かに息を潜めているのだ。
文乃は思わず、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。本の虫として、これほどまでに血が沸き立つことがあるだろうか。まだ見ぬ物語たちが、それぞれの体温を持ち、誰かに見つけられるのを待っている。その文字のひと粒ひと粒に、エマの両親が込めたような、切実で温かな祈りが宿っているに違いない。
窓の外に広がる、どこまでも続く夜の静寂。その闇の先にあるはずの、無数の知識の海。文乃はアメジストの瞳を輝かせるエマを見つめ、決意を新たにする。
(この子と一緒に、それらをひとつずつ手繰り寄せていきたい。スキルの文字を追うだけじゃなくて、そこに込められた本当の『想い』を、この世界から掬い上げたい)
未知への期待に、文乃の頬は微かに上気し、古文書に向き合うその瞳には、かつてないほどの熱い光が宿っていた。
「ありがとう、エマ。あなたのおかげで、失われた言葉を蘇らせることが出来た」
文乃は感極まった面持ちで、エマの小さな手を取った。アメジストの瞳を瞬かせる少女に対し、文乃は抑えきれない好奇心と親愛を込めて言葉を続ける。
「ねぇ、エマ。もしよかったら、いつかその不思議な文字で書かれた本を私にも読ませてくれない? あなたのパパとママが大切にしていた物語、私も読んでみたい」
その瞬間、エマの表情が凍りついた。喜びの色が宿りかけていた瞳がみるみるうちに潤み、大粒の涙が頬を伝って、清潔な寝巻きの胸元に吸い込まれていく。
「……う、うっ……あ、ああ……っ」
「エマ!? ごめんなさい、私、何か悪いことを……っ」
文乃は狼狽し、慌ててエマの肩を抱き寄せた。無神経に過去を暴こうとした自分を恥じ、懸命に謝罪の言葉を紡ぐ。けれど、エマは嗚咽を漏らしながら、弱々しく首を横に振った。
「……ううん、文乃は、悪くないの。……でも、あの本は、もうないの。二度と、読むことはできないの……」
エマは途切れ途切れの声で、自らの壮絶な過去を語り始めた。辺境の貴族として慎ましくも幸せに暮らしていたあの日々。信頼していた「親友」に裏切られ、父が目の前で惨殺されたこと。炎に包まれる屋敷から、母と二人、海を渡ったこと。
そして――慣れない逃亡生活の末、母が病に倒れ、冷たくなっていくその手を握りしめることしかできなかったこと。
その時エマの瞳が、ふっと焦点を失った。彼女の意識は容赦なく、あの忌まわしき「灰色の夜」へと引き戻される。
――視界が、赤く染まっていた。愛する父が、冷徹な銀の光を放つレイピアに貫かれた、あの瞬間。
「嫌……パパ! パパッ!!」 崩れ落ちる父の姿に、エマは喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。だが、その小さな体は、返り血を浴びて震える母の腕によって強引に抱き上げられた。
「逃げるのよ、エマ! 前を見てっ!」
母の叫び。二人は泥濘に足を取られ、ドレスの裾を引き裂きながら、闇に待機していた馬車へと転がり込んだ。ガタガタと激しく揺れる車内。外からは、追っ手たちの馬蹄の音と、こちらを嘲笑うような怒号が風に乗って聞こえてくる。
「……奥様、お嬢様。これ以上は、もちません」
御者台から、血の匂いをさせた従者が低く、だが断腸の思いを込めて告げた。振り返れば、松明の火がすぐそこまで迫っている。
「私が囮となり、奴らを引きつけます。……お二人は、次の茂みで降りて。決して振り返らず、森を抜けて海へ走るのです」
「でも、貴方まで……!」
「どうか!エマお嬢様を!」
従者が馬に鞭をあてた瞬間、母はエマの手を強く握りしめ、闇夜へと飛び降りた。冷たい土の感触。背後で遠ざかっていく馬車の音と、それを追う怒号。 エマの脳裏には、泥にまみれ、息を切らし、ただ「生き延びる」という本能だけで暗い森を駆けた。
闇を切り裂くように森を抜け、ようやく辿り着いた港町。母は息を切らし、泥に汚れたドレスの首元に手をかけた。代々受け継がれてきた宝石が散りばめられたネックレス。それを外し、停泊中の貿易船の船員へと突き出した。
「お願い……私たちを安全な場所へ。連れて行ってください」
船員は無言で母の差し出した宝石を奪うようにむしり取り、何食わぬ顔で、もう片方の手のひらを差し出してきた。
――もう一人分。
言葉はなかったが、その卑劣な要求は誰の目にも明らかだった。母は震える手で耳元から耳飾りを外し、指から指輪を抜き取り、船員の掌に落とした。
荒れ狂う海を越え、リュクサールの港に降り立った時には、母の纏う華やかな衣装はぼろ布と化していた。母の頬はこけ、かつての面影は見る影もない。
二人は藁にもすがる思いで、港の片隅にある教会へと転がり込んだ。だが、逃亡の果てに蝕まれた母の身体は、もはや神の加護さえも拒むように静かに衰弱していった。
寒さに震える夜、母は静かに息を引き取った。
「ママ……? ママ、起きてよ……!」
冷たくなっていく母の亡骸に泣きじゃくり、エマは何度も何度もその細い肩を揺さぶった。外からは冷たい風が教会の窓を叩く。すがりつくエマの視界に、ふと、母の左手が映った。
宝石も、衣類さえもすべて売り払ったはずだった。けれど、母の薬指には一つだけ――あの指輪だけが、最後まで残されていた。かつて父から贈られたであろうその指輪は、母の痩せ細った指の上で、悲しいほどに静かな光を放っていた。母は父との大切な思い出を最期の最期まで決して手放さなかった。
教会の暗い祭壇の下で、エマはその温もりの消えた手を握りしめ、ただ泣くことしかできなかった。
「……パパが殺されて、ママも死んじゃって……本も、悪い人たちに奪われちゃった……。私には、もう、なにもないの……」
幼い肩を激しく震わせ、声を殺して泣くエマ。その想像を絶する孤独と喪失感に、文乃の胸は張り裂けんばかりに締め付けられた。文乃はエマを壊れ物を扱うように抱きしめ、自分もまた、ぼろぼろと涙を流した。
「ごめんね……辛いことを思い出させて、本当にごめんね、エマ……」
二人の悲痛な泣き声が、静まり返った図書室に響く。だがその時、図書室の太い柱の影から、凄まじい勢いで「何か」が飛び出してきた。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉん!!!」
地鳴りのような咆哮。驚いて顔を上げた文乃とエマの視界に入ってきたのは、鋼の鎧を纏った騎士――騎士団長ガルドだった。彼はその巌のような顔を真っ赤に染め、滝のような涙を頬に滴らせながら、子供のように声を上げて号泣していた。
「なんという……なんという不憫な話だッ! エマ!貴殿がこれほどまでの辛苦を嘗めてきたとは……ッ!」
ガルドはガシャガシャと派手な金属音を立てながらその場に跪くと、腰に差した長剣の柄を力強く握りしめた。そのあまりの熱量と涙の量に、エマは涙も引っ込んで呆然と立ち尽くす。
「案ずるな、エマよ! このガルド、騎士の誇りと全霊を賭けて誓おう!貴殿の父上を手にかけ、母上を苦しめ、大切な本を奪ったその悪党ども……私がこの剣で、必ずや成敗してみせるッ!地の果てまで追い詰め、法の裁きを受けさせてくれるわッ!!」
ガルドの放つ凄まじい正義のオーラと、男泣きによる鼻息が、図書室の空気を激しく震わせる。あまりの勢いに圧倒されたエマだったが、自分たちのためにここまで全力で怒り、泣いてくれる大人の存在に、その心には不思議な温かさが灯り始めていた。
ガルドの熱い誓いが図書室の空気を震わせていた、その時だった。
――ぐぅぅぅ……
静寂の中に、控えめだが主張の強い音が響き渡った。エマは顔を真っ赤にし、寝巻きの上からぺったんこのお腹を両手でさすった。そういえば、今朝の炊き出しで薄いスープとパンを口にして以来、今日一日何も食べていなかったのだ。
「はっはっは! 気にするな。子供は腹一杯食べて、泥のように眠るのが仕事だからな!」
ガルドは豪快に笑い飛ばすと、涙を拭うのも忘れてエマの小さな肩に手を置いた。
「文乃も一緒に行くぞ。お前もどうせ、読書に夢中で昼飯を抜いただろう? 司書は体が資本だ。そんな細い腕で分厚い古文書が持てるか」
「あ……バレましたか。ちょうど良いところだったから、つい」
文乃は苦笑いしながら、ペンを置いて立ち上がった。
三人は意気揚々と城の厨房へ向かったが、そこには思わぬ「敵」がいた。昼食の片付けを終えたばかりの厨房は、火も落とされ、料理人たちも休憩に入ってしまった後だったのだ。
「ぬぅ……一足遅かったか。だが、子供の腹を減らしたまま放っておくのは、騎士の道に反する!」
ガルドは一つ頷くと、文乃とエマを連れてそのまま城下町へと繰り出した。
辿り着いたのは、入り口に古びた盾の看板が掲げられた、いかにも年季の入った酒場だった。
「ガルドさん……ここ、酒場ですよね? 未成年を連れてきて大丈夫なんですか?」
文乃が不安げに尋ねると、店内から「待ちな!」という威勢の良い声が飛んできた。
現れたのは、色褪せたエプロンをきつく締め、腰に手を当てた恰幅の良い中年女性だった。艶やかな栗色の髪を高い位置でまとめ、日焼けした顔に刻まれた笑い皺が、彼女の歩んできた賑やかな年月を物語っている。
「うちは昼は食堂、夜は酒場さ。騎士団の連中が二日酔いの頭を冷やしに来る場所だよ」
おばさんはエマの前に屈み込むと、その細い腕を優しくつついた。
「それにしてもあんたたち、細いねぇ! もっと沢山食べないと、あたしみたいな絶世の美女にはなれないよ?」
「……絶世の、美女?」
エマが不思議そうに首を傾げると、厨房の奥から中年男性の威勢の良い声が聞こえた。
「おい、冗談もほどほどにしとけよ。お嬢ちゃん達が困ってんじゃねぇか」
そう言って姿を見せたのは、丸太のような太い腕を剥き出しにした旦那だった。使い込まれた包丁を手に、逞しい力瘤を作ってみせる。
「ガルド様、お連れさんのために腕を振るってやるよ。栄養たっぷりのやつをな。腹を空かした子供達をそのまま帰らせるなんて、俺のプライドがゆるせねぇ」
鉄鍋が火にかけられ、じゅうじゅうという景気の良い音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが漂い始める。エマは、立ち込める湯気の向こうで交わされる夫婦の軽口や、ガルドが豪快に机を叩いて笑う姿を、アメジストの瞳を丸くして見つめていた。殺伐とした炊き出しの列にはなかった、火の温もりと、誰かが自分のために作ってくれる料理の気配。エマは無意識のうちに、自分の居場所を確かめるように、隣に座る文乃の司書服の袖をぎゅっと握りしめていた。
運ばれてきたのは、厚切りのベーコンと野菜がたっぷり入った熱々のシチューと、香ばしく焼き上げられた大きなパンだった。エマは最初こそ遠慮がちにスプーンを動かしていたが、一口そのスープを口に含んだ瞬間、アメジストの瞳を大きく見開いた。喉を通る温もりが、冷え切っていた内臓をじわりと溶かしていく。
「……おいしい。すごく、あったかい……」
お腹だけでなく、凍えていた心までもが満たされていくような感覚。最後の一口まで綺麗に平らげたエマは、自身の唇をそっと拭い、隣で豪快にジョッキを空けていたガルドに向き直った。
「ありがとうございます。こんなに美味しくて、楽しいご飯は久しぶりです」
「はっはっは、気にするなと言っただろう! 子供は食べて、遊んで、泥のように寝るのが仕事だ。それに、お前さん一人分の食事代など、俺にとっては大した負担ではない」
ガルドは太い指で顎をなでながら、満足げに鼻を鳴らした。その様子を眺めていた文乃が、悪戯っぽく口角を上げる。
「あら、ガルドさん。私の分は、団長さんの奢りではないんですか?」
「何を言うか文乃。お前はちゃんと国から給金をもらっているだろう? 騎士団の乏しい予算を、そんなことで削らせるな」
ガルドが肩をすくめて笑うと、文乃はわざとらしく「団長のけち〜」と呟き、頬を膨らませた。そんな二人の軽快なやり取りを、エマは不思議そうに、けれどどこか安心したような表情で見守っていた。
店を出て、腹ごなしに城への道を歩いていた時のことだ。エマの歩みが次第に遅くなり、隣を歩く文乃の袖を、遠慮がちに、けれど切実な力で引いた。
「エマ? どうしたの?」
文乃が覗き込むと、エマは顔を真っ赤にし、もじもじと落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「……あの、ふみの……。その……お、おトイレに行きたくなって……」
蚊の鳴くような小さな声での耳打ち。文乃は「あ」と目を見開き、すぐに優しく微笑んだ。
「ガルドさん、すみません。ちょっとエマと一緒に『お花を摘んで』きますね」
「ん? 花? この時期にか? ……ああ、いや、それなら向こうの広場の方が……」
言葉通りの意味で受け取り、真顔で首を傾げるガルドを置き去りにして、文乃はエマの手を引いた。
「さあエマ。さっきの食堂で場所を借りようか」
文乃が来た道を戻ろうとすると、エマがぐいと文乃の手を反対方向へ引いた。
「こっち……!こっちを通った方が、お店まで近いよ」
エマが指差したのは、建物の隙間にひっそりと口を開けている、狭く暗い路地裏だった。ここは、毎日を路上で過ごしていたエマにとって「熟知した通り道」なのだろう。文乃は少しだけ不安を覚えたが、エマの切羽詰まった表情に押され、その小さな背中を追って迷路のような細い道へと足を踏み入れた。
その時
ザッ、と不穏な足音が複数、二人を取り囲んだ。周囲の空気が一瞬で凍りつく。
「いたぞ。例の娘だ」
低い男の声。エマが弾かれたように顔を上げる。男の台詞を聞いてすぐに理解した。外套のフードを深く被り、正体がわからないが、目の前にいる男達は間違いなく父を殺した者の仲間だ。彼らのぎらついた視線がエマに釘付けになる。
「娘は殺すなよ!邪魔する奴は躊躇無く殺せぇ!」
悪意に満ちた男たちが一斉に襲いかかる。
「きゃあっ!」
文乃が悲鳴を上げる。離れた場所にいたガルドが異変に気づき、長剣を抜いて駆け出す。
「貴様ら、何者だ!」
だが、距離がある。間に合わない。男の一人が、邪魔な文乃を剣の柄で殴り飛ばそうとした。
「危ない!」
叫んだのはエマだった。彼女は小さな体で文乃に体当たりをし、突き飛ばした。
「エマ!?」
地面に転がった文乃の目の前で、エマが男に乱暴に腕を掴まれる。
「文乃、逃げて!こいつらの狙いは私!」
エマの悲痛な叫びが響く。その瞳は、恐怖に震えながらも、文乃を守ろうとする決死の光を宿していた。
「くっ……離して!」
エマが男たちによって路地裏の奥へと引きずり込まれていく。ガルドがその後を追おうとした時にはすでに敵は煙幕を張り、エマの姿と共に消え失せていた。
「エマ……」
文乃はその場に呆然と立ち尽くす。あの子は、自分を犠牲にして文乃を守ったのだ。自分が傷つくことも恐れず、たった一人で立ち向かっていたのだ。
文乃の胸に、かつてないほどの激しい感情が渦巻いた。それは大切な「本好きの友人」を奪われたことへの、燃えるような怒りと決意だった。
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