第三十ニ話 千年の時を超える祈り
城の隠し通路を抜け、人目を忍んで戻った先では、案の定「地獄」が待ち構えていた。
「――殿下。お帰りなさいませ」
冷徹な響きを湛えた声と共に現れたのは、老執事のアルノルトだった。白髪を一点の乱れもなく整え、漆黒の燕尾服を隙なく着こなした彼は、眼鏡の奥の眼光を鋭く光らせている。
「あ、アルノルト……いや、これはだな」
「言い訳は、執務室でたっぷりと伺いましょう。……三時間は覚悟していただきたい」
アルノルトがレオネルの肩を優しく、しかし逃げ場を封じるような確かな力で掴む。
「おい、ガルド! 助けろ!」
「自業自得です、殿下。……では、私はこれにて。後のことはお任せしました、マチルダ殿」
ガルドは憐れみの欠片もない敬礼で見送ると、背後に控えていた恰幅の良い女性へと視線を向けた。彼女こそが、この城の裏の支配者とも言われるメイド長のマチルダである。糊のきいた白いエプロンに、厳しいが温かみのあるアイスブルーの瞳。彼女はエマの汚れきった姿を一目見るなり、深い慈愛を滲ませて頷いた。
「文乃さん、この子のお風呂と着替えの準備をいたしました」
ガルドは業務に戻り、レオネルは説教部屋へ。文乃はマチルダに導かれ、エマを連れて湯殿へと向かった。大理石で作られた広々とした浴室に、白く柔らかな湯気が立ち込める。
「……自分で、できる」
エマは服を脱ぐのを躊躇い、小さな肩をすくめた。
「いいのよ、遠慮しないで。……さあ、まずはその髪から綺麗にしましょうね」
文乃は優しくエマを座らせると、埃と皮脂でゴワゴワに固まってしまったプラチナブロンドの髪に、たっぷりと温い湯をかけた。指先で丁寧に、もつれた毛先を解いていく。
(……ああ、お母様も、こうしてくれた)
エマの脳裏に、今は亡き母の優しい手の温もりが蘇る。温かい湯の香りと、文乃の柔らかな指の動き。それは、ずっと凍りついていたエマの記憶を、ゆっくりと解かしていくような至福の時間だった。
実は入浴前、マチルダから「体に酷い傷がないか、見てあげてほしい」と耳打ちされていた。文乃は髪を洗い、細い背中を流しながら、注意深くエマの肌を観察した。幸いなことに、古い傷跡こそあれど、今すぐ治療が必要な大きな外傷はない。けれど、厳しい冬の風に晒され続けた肌は、赤く皸割れ、いたるところが粉を吹いたように荒れ果てていた。
入浴後、文乃はエマをふかふかのバスタオルで包み込むと、用意されていた保湿剤や軟膏を手に取った。
「少し冷たいけど、我慢してね」
文乃の白い指先が、エマの赤くなった頬や、ささくれた指先へ、いたわるように薬を塗り込んでいく。その真摯な手つきは、まるで壊れやすい宝物を修復する職人のようだった。
「……ふわぁ」
清潔な、綿菓子のように柔らかい寝巻きに包まれたエマは、ついに堪えきれず大きなあくびを漏らした。温まった体と、清潔な肌。そして何より、自分を慈しんでくれる誰かが側にいるという安心感。エマの瞼は鉛のように重くなり、文乃の腕の中でうとうとと船を漕ぎ始めた。
「お疲れ様、エマ。今日はもう、ゆっくり休みましょう」
文乃は、羽毛のように軽いエマの体をそっと抱き上げた。そのまま図書室へ向かい、日当たりの良い大きなソファに彼女を横たえる。寝息を立て始めたエマの顔を、文乃は慈しむように見つめた。泥を落とした後の彼女の素顔は、肖像画の母親によく似た、驚くほど美しい顔立ちをしていた。文乃は厚手のウール毛布を首元まで掛け直し、エマが大切に握りしめていた「形見のペンダント」を、その枕元にそっと添えた。
「おやすみなさい……」
図書室の窓から差し込む冬の柔らかな陽光が、眠る少女と、それを見守る司書の姿を優しく包み込んでいた。
***
図書室を支配していたのは、しんとした静寂と、古びた紙が放つ微かな甘い香りだった。ふと目を覚ましたエマの視界に、月明かりに照らされた一人の女性の背中が映り込む。机に向かい、熱心に本を読み耽るその姿勢。時折、さらさらとペンを走らせる音。それは、かつてエマが何よりも愛した、亡き母親の日常の風景そのものだった。
(……ああ、夢じゃないんだ。ママ、そこにいたんだね)
エマは、寝巻きの裾を握りしめながら、音を立てないようにソファを降りた。まだ夢の淵を彷徨っているような足取りで、吸い寄せられるようにその背後へと歩み寄る。そして、その温もりに縋り付くように、小さな両腕でその背中をぎゅっと抱きしめた。
「……ママ」
溢れ出した涙が、女性の着ている柔らかな司書服を濡らす。その瞬間、窓を遮っていた雲が流れ、冴え渡る月光が 室内を青白く照らし出した。ゆっくりと振り返ったのは、眼鏡の奥に驚きを湛えた文乃の、穏やかな顔だった。
「……エマ? ごめんなさい、起こしちゃった?」
エマはハッと息を呑み、自分の過ちに気づいて腕を解こうとした。けれど、文乃は逃がさないように、エマの小さな体をそっと、包み込むように抱き返した。 司書服越しに伝わる、母とは違う、けれど確かにそこにある生きた人間の鼓動と体温。文乃の細い手が、エマの背中を優しくあやし、寄り添う。
「……ありがとう」
エマの唇から漏れたのは、羽毛よりも軽い、けれど重い過去を乗り越えようとする者の感謝の言葉だった。しばらくして、涙を拭ったエマは、文乃が広げていた机の上の光景に目を向けた。そこには無数の古い羊皮紙と、インクの染みがついたメモが散乱している。
「……なにをしてるの?」
「これ? 私はね、この王立図書館の司書として、ここに眠る古い記録を読み解く仕事をしているの。でも、これがなかなか難しくて……」
文乃は困ったように眉を下げ、文字が欠けてしまった箇所を指差した。エマはアメジストの瞳を細め、欠落した箇所の前後の文字列をじっと見つめた。
「……ここ、多義語が使われている」
「え……多義語?」
「ええ。この単語は、文脈によって『星』とも『道標』とも読めるの。でも、この前の言葉から考えると……ここは『永遠』という意味になるはず」
エマが確信を込めて断言した、その瞬間だった。
霞がかってぼやけていた羊皮紙の空白が、その輪郭を取り戻していく。
欠落していたはずのインクの跡が、まるで生き物のように黄金の光を帯びて繋がり、失われていた著者の想いが、澱みのない言葉となって文乃の意識の中へ雪崩れ込んできた。
『――永久に続くこの道標を、君に捧ぐ』
「っ……!」
文乃は息を呑んだ。
今、確かに聞こえた。千年の時を超えて、この言葉を紡いだ著者の、震えるような祈りが。
ぼやけていた視界が嘘のように鮮明になり、欠けていたはずの文脈が、パズルのピースが埋まるように完璧な文章として脳内に再構築される。
(……読み取れた。私のスキルが匙を投げた言葉の欠落を、この子が埋めたんだ……!)
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