第三十一話 ロケットと騎士団長の土下座
文乃は、自分の腰ほどまでしか背丈のないエマをじっと見つめた。ボロ布のような服から覗く手足は驚くほど細く、汚れの下の肌は冬の乾燥で白く粉を吹いている。まだ七歳かそこらだろう。本来なら親の庇護の下、温かい火の側で絵本でも読んでもらっているはずの年頃だ。
(どうして……こんなに小さな子が、たった一人でこんな場所に……)
文乃の胸に、ちくりとした痛みが走る。その沈痛な面持ちを察したのか、レオネルがいつもの軽薄な笑みを消し、神妙な面持ちで口を開いた。
「文乃、この国が平和だからといって、世界のすべてがそうでは無い。海の向こうには、数十年も不毛な領土争いを続けている国もあれば、独裁的な王の搾取によって、民がその日のパンにも事欠く国もある。……ここは、そんな場所から命からがら逃げ延びてきた者や品たちが最後に行き着く掃き溜めでもあるんだ」
レオネルのサファイアの瞳には、王族として冷徹に現実を見つめる深い影が宿っていた。その言葉を受け、傍らに立つガルドが、自らの無力さを噛み締めるように拳を固く握りしめた。鎧の籠手がギチリと軋む。
「……騎士の剣が届くのは、この国の国境までだ。その外側で、どれほど理不尽に命が散っていこうとも、我々には成すすべがない」
鉄の規律を体現したようなガルドの顔に、苦々しい色が広がる。文乃は、かつて図書館で読んだ戦時下の民の手記を思い出していた。戦火に追われ、愛する家族を失い、名前さえ捨てて泥を啜った人々の慟哭。その悲鳴が、目の前の小さな少女の姿に重なり、視界がぶわりと涙で滲んだ。
「せめて、今日くらいは温かい場所へ連れて行こう。……お嬢ちゃん、怖がらなくていい。我が騎士団の詰所で保護させてもらう」
ガルドがその大きな、節くれ立った手をエマの方へと伸ばした。だが、その厚意は、エマにとって恐怖の引き金でしかなかった。
「……っ、触らないで!」
エマは弾かれたように叫び、ガルドの手を振り払った。その拍子に、彼女の胸元で揺れていた銀色のペンダントが、細い鎖ごと千切れて石畳の上に転がった。
「あ……」
硬い音を立てて落ちた衝撃で、円形のロケットがカチリと開く。文乃は反射的にそれを拾い上げた。開いた蓋の裏側には、優しげに微笑む若い夫婦と、その腕の中で無垢に眠る赤ん坊の肖像画が収められていた。そして、古風な筆致で刻まれた一文が、文乃の目に飛び込んでくる。
『――愛しのエマへ』
「返して! それは、私の……返して!」
エマが悲鳴のような声を上げ、文乃に詰め寄った。そのアメジストの瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。文乃は、肖像画の中の幸せそうな両親と、今の汚れ傷ついたエマを交互に見つめた。この繊細なロケットを、命懸けで守ってきたのだろう。そして、この絵の中にしか、彼女の帰る場所は残っていないのだ。
(ああ、なんてこと……)
文乃の目から、ぽろりと一筋の涙が溢れた。彼女はエマの目線に合わせるようにその場に膝をつくと、震える手でロケットを閉じ、宝物を扱うようにエマの両手で包み込んだ。
「……ごめんなさい、エマ。あなたの大切な、世界で一番大事な宝物を落としてしまって……本当に、ごめんなさい」
文乃の声は、絞り出すような震えを帯びていた。純粋な謝罪と、彼女の痛みを我が事のように想う文乃の涙。ガルドもまた、己の正義感が少女を追い詰めたことを悟り、重厚な鎧を鳴らして深く腰を屈めた。
「……すまない。私の配慮が足りなかった。君の心に土足で踏み込むような真似をしてしまった。許してくれ」
一国の騎士団長が、路地裏の浮浪児に頭を下げる。エマは、差し出されたロケットを胸に抱きしめながら、当惑したように二人を見つめた。これまで出会ってきた大人は、奪うか、嘲笑うか、無関心に通り過ぎる者ばかりだった。
自分を「一人の人間」として扱い、その痛みに涙を流す文乃と、己の過ちを認めるガルド。エマの瞳に宿っていた冷たい拒絶の氷が、二人の誠実な熱によって、ほんの少しだけ溶け始めていた。
文乃は、冷たい石畳の上に躊躇なく膝をついた。図書館での司書服の裾が泥に汚れるのも構わず、エマの目線に合わせるように深く頭を下げる。それは「保護者」が「被保護者」に向ける態度ではなく、一人の専門家が、自分より優れた知恵を持つ相手へ敬意を表する儀礼だった。
「エマ、お願い。私はあなたを『可哀想な子供』として助けたいんじゃないの。私の仕事……この国の古い歴史を解き明かすために、あなたの知識を貸してほしい。本を心から愛するあなたの力が、どうしても必要なの」
文乃が顔を上げ、真摯な眼差しを向けると、エマは戸惑ったようにアメジストの瞳を揺らした。文乃はさらに安心させるように、背後の二人を指差して悪戯っぽく微笑む。
「それにね、もし私があなたに少しでも嫌なことをしたり、傷つけたりしたら、すぐにこの人たちが私を捕まえて牢屋に入れてくれるわ。……だって、こっちの少し態度の大きいお兄さんはこの国の第一王子で、隣の強そうなおじさんは騎士団の団長様なんだから」
「おい、態度の大きいとは心外だな。あと、俺は決しておじさんでは無い!」
レオネルが苦笑しながら、上質な革の手袋を外した。その指先には、王家の紋章である「黄金の獅子」が刻印された、重厚なサインリングが鈍く光っている。
「……確かに、この紋章にかけて、無体な真似はさせないと誓おう。それに、この国の第一王子が直々にスカウトに来るなんて、一生に一度あるかないかの名誉だぞ? どうだ、悪い話じゃないだろう」
レオネルは端正な顔立ちに自信満々の笑みを浮かべ、腰の剣に手を当ててポーズを決めた。第一王子の肩書きを最大限に利用して調子に乗る親友に対し、ガルドが鎧の篭手を軋ませて、冷ややかな声を落とした。
「……ほう。つまり殿下は、第一王子が公式な護衛もつけず、独断でこんな危険な裏通りを彷徨っていたと、自ら認めるわけですな?」
ガルドの鋭い眼光がレオネルを射抜く。その表情は、正義感あふれる騎士団長から、不届きな生徒を叱る教師のような厳格なものへと変わっていた。
「それはつまり、城へ戻ればアルノルト殿の、三日三晩に及ぶ説教を受ける覚悟ができている……ということでよろしいか?」
レオネルの顔から、みるみるうちに余裕が消え失せた。
「あ……。いや、ガルド、それは……待て。私はだな、あくまで有能な人材を確保するために……」
「問答無用だ」
先ほどまでの王族の威圧感はどこへやら、レオネルは「しまった」と言わんばかりに顔を引き攣らせ、視線を泳がせている。そのあまりに情けない王子の姿と、大真面目に詰め寄る巨漢の騎士団長のやり取りは、殺伐とした路地裏にはあまりに不釣り合いで、滑稽だった。
エマは、胸に抱きしめていた形見のペンダントを少しだけ緩め、ポカンと口を開けていたが――やがて、喉の奥から小さく「ふふっ」という音が漏れた。張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れたような、幼子らしい無邪気な笑い。
「……へんなの。王子様なのに、怒られてる」
煤で汚れた頬を赤く染め、エマが初めて柔らかな表情を見せた。文乃はその瞬間を逃さず、そっとエマに手を差し伸べた。
「そう、変な人たちでしょ? でも、悪い人じゃないの。……行きましょう、エマ。私と一緒に、本を助けてあげて」
エマは、差し出された文乃の白く柔らかな手をじっと見つめ、それからレオネルとガルドを交互に見た。まだ完全に信じたわけではない。けれど、この温かな笑いがある場所なら、凍える朝を一人で過ごすよりはマシかもしれない。エマは、意を決したように小さく頷くと、おそるおそる文乃の手に自分の小さな手を重ねた。
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