第三十話 路地裏の小さな賢者
城下町の裏通りは、表通りの華やかさとは違う、独特の熱気に満ちていた。埃っぽい匂いと、得体の知れない香辛料の香り。店先に並ぶのは錆びついた剣や、文字の読めない石版など、怪しげな品ばかりだ。
「わぁ……まるでファンタジー映画のセットみたい」
文乃はフードを深く被りながら、きょろきょろと辺りを見回す。目当ての写本を探して数件の店を回ったが、残念ながら収穫はなかった。
「さすがに都合よくは見つからないか」
レオネルが肩をすくめた、その時だった。文乃の視線が、路地の突き当たりにある一軒の露店に釘付けになった。店先には煤けた布が広げられ、そこには奇妙な紋様が刻まれた古い革装丁の本が、一冊だけ鎮座していた。
「レオネル様、あれ……!」
「ほう、それらしいものを見つけるのが早いな」
文乃は吸い寄せられるように露店へ歩み寄った。スキルのウィンドウが、その表紙に刻まれた文字を『古代神聖文字』と瞬時に判別する。掠れ、汚れてはいるが、確かに図書館で見た欠損資料と同じ時代の特徴を備えていた。中身を確認しようと文乃が細い指を伸ばした、その時だ。
「おい、そこの嬢ちゃん。気安く触るんじゃねぇよ」
横合から、濁った声が響いた。現れたのは、顔の半分を汚い包帯で巻いた、痩せぎすの露天商だった。彼は文乃の手を払いのけるようにして本を抱え込むと、金欠病の鳥のような鋭い目で二人をねめつけた。
「これは数百年前に滅んだ王国の、たった一冊残った写本だ。価値の分からねぇガキが触って脂でもついたら、一生かかっても弁償できねぇぞ。……どうしても見たいってんなら、先に金だ。金貨三枚。買ってから好きなだけ拝むんだな」
金貨三枚。平民の家庭なら半年は暮らせる大金だ。文乃は唇を噛んだ。もしこれが本物なら、古文書の欠けた文字を読み解くヒントが得られるかもしれない。けれど、中身も見ずに払うにはあまりにリスクが高い。
「……分かりました。払いましょう」
文乃が意を決し、腰のポーチから財布を取り出そうとした、その時。
「……待って。それ、買っちゃだめ」
涼やかだが、どこか冷めた子供の声が割って入った。文乃の腕を小さな、泥で汚れた手が引き止める。驚いて振り返ると、そこにはボロ布を纏った小柄な少女が立っていた。フードの隙間から覗くプラチナブロンドの髪は埃にまみれ、痩せこけた頬は煤で汚れている。しかし、そこにあるアメジストの瞳だけは、濁った路地裏の空気の中でさえ、気高く透き通っていた。
「何だこのクソガキは!?商売の邪魔をするんじゃねぇ!」
「……嘘つき。その革、使い古された馬の鞍を煮て柔らかくしただけ。装丁の糸も、近年の安価な麻糸。文字だって、煤を油で練っただけの偽物のインク……。金貨どころか、銀貨一枚の価値もない」
少女の淡々とした指摘に、露天商の顔がみるみるうちに赤黒く染まっていく。
「このガキが……! 知った風な口を利きやがって!」
「待ちなさい! この子が言ってることは本当なの!?」
詰め寄る文乃を突き飛ばすようにして、逆上した男が太い腕を振り上げた。その汚れた拳が、動じずに立ち尽くす少女の細い顔目掛けて振り下ろされようとした瞬間――。
「――よせ。見苦しいぞ」
割り込んだレオネルが、男の手首を鉄の万力のような力で掴み取った。騎士服の袖から覗く逞しい腕には青筋が浮かび、先ほどまでの軽薄な笑みは消え失せ、底冷えのするような王族の威圧感が場を支配する。
「なっ、放せ……! この、野郎……!」
「往生際が悪いな。衛兵を呼ぶ手間が省けたようだぞ」
レオネルの視線の先――路地裏の入り口から、重厚な金属音が響いてきた。人混みを割り、白銀の鎧を硬質な音で鳴らしながら、一人の騎士が進み出てくる。
「……騒がしい。何事だ」
岩石を削り出したような厳格な顔立ち。短く整えられた焦げ茶色の髪に、すべてを見透かすような鋭い眼光。リュクサール国騎士団長、ガルドだった。王立騎士団の紋章を目の当たりにした瞬間、露天商の顔から血の気が引いた。
「し、失礼しましたっ!」
男はレオネルの手を振りほどくと、売り物の本を放り出したまま、脱兎の如く路地の闇へと消えていった。静寂が戻った店先に、文乃は呆然と残された本を拾い上げた。ページをめくると、そこには、何一つ記されていない真っ白な空間が広がっていた。
「……本当に、ただの偽物。お見通しだったのね」
文乃は、傍らに立つ少女に向き直った。少女は文乃と目が合うと、弾かれたように一歩後退し、野良猫のような警戒心を剥き出しにする。
「……助けてくれてありがとう。あなたの目、すごいのね。素材だけで偽物だと見抜くなんて、プロの鑑定士でも難しいわ」
文乃が心からの称賛を込めて微笑むと、少女は意外そうに目を丸くした。大人に褒められることに慣れていないのか、あるいは文乃の瞳に裏表がないことを悟ったのか。アメジストの瞳が微かに揺れ、結ばれていた薄い唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……別に。当たり前のことを言っただけ」
少女は素っ気なく答えると、地面に落ちていた偽物の本を、泥を払うようにして優しく手に取った。そして、その精巧に作られた表紙を、痛ましげな表情で見つめる。
「……この本、偽物だけど、一生懸命作ってある。年代物の装丁に似せようとして、何度も革を叩いて、丁寧に文字をなぞって……。それなのに、詐欺の道具にされて、こんなところに捨てられて……可哀想」
少女の呟きは、鈴が鳴るように儚く、そして深い悲しみを湛えていた。ただの「偽物の道具」としてではなく、そこに込められた作り手の熱意や、本そのものの形を愛おしむようなその横顔に、文乃は胸を強く突かれた。この子は、自分と同じだ。本を、知識を、魂の宿るものとして愛している。
「……ねぇ、あなた。名前を教えてくれる?」
文乃がそっと問いかけると、少女は再びフードを深く被り、アメジストの瞳を伏せた。
「……エマ」
それが、文乃にとって運命を大きく変えることになる、小さな賢者との出会いだった。
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