第二十九話 孤独な紫水晶と傷ついた古文書
凍てつくような冬の朝だった。王都の片隅、リュクサール国で最も広く信仰されている聖言教の教会前には、温かい湯気を求めて長い列ができていた。その最後尾に、ボロ布を何枚も重ね着したような、小さな影があった。
「はい、どうぞ。神の恵みがありますように」
シスターが微笑み、木椀にたっぷりと注がれたスープとパンを差し出す。少女は泥と煤で汚れた手でそれを受け取ると、逃げるように背を向けようとした。
「待ちなさい、お嬢ちゃん」
シスターが心配そうに呼び止める。
「こんな寒い日に一人なの? もし帰る場所がないなら、教会の孤児院へいらっしゃい。温かいベッドもあるし、優しい先生もいるわよ」
少女の足がぴたりと止まる。ボロ布のフードの下、アメジスト(紫水晶)のような瞳が揺れた。温かいベッド。屋根のある部屋。それは、今の彼女にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。
けれど――少女の脳裏に、赤黒い炎と、父の最期の叫びが蘇る。
――信じるな、エマ。誰も信じてはいけない。
大人は嘘をつく。優しそうな顔で近づき、裏切る。父様もそうやって殺された。かつて父が親友と紹介した男の手によって。少女は小さく首を横に振り、シスターの手を振り払うようにして走り出した。
「あっ、待って……!」
呼び止める声を背に、彼女は路地裏の暗がりへと滑り込む。冷たい石畳の上に座り込み、冷めかけたスープを一口すする。薄味の野菜スープだが、五臓六腑に染み渡る温かさに、少女はほうっと白い息を吐いた。
ふと、路地の隙間から向かいの公園が見えた。楽しげな笑い声。母親が小さな子供を抱き上げ、高い高いをしている。少女はパンを握りしめたまま、懐からそっと、銀色のロケットを取り出した。古びてはいるが、精巧な彫金が施されたそれは、今の彼女の身なりには不釣り合いなほど高価な輝きを放っている。
カチリ、と蓋を開く。中には、優しげな両親と、その腕に抱かれた赤ん坊の肖像画が収められていた。
「パパ……ママ……」
指先で、今は亡き母の笑顔をなぞる。ぽたり、とスープの中に涙が落ちて波紋を作った。
少女――エマ・アウラリアは、ロケットを胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。
一方その頃、王城の図書館では、文乃が頭を抱えていた。
「うぅ……だめ、やっぱり読めない……」
机の上にはボロボロとなった古い羊皮紙が広げられている。
文乃がその古い羊皮紙に視線を落とすと、いつもなら彼女の脳内で、淀みのない「言葉」へと編み直されていく。それは呼吸をするのと同じくらい自然で、翻訳された意味が直接流れ込んでくるようだった。
――だが、今は違った。
どんなに目を凝らしても、文字は霞がかったようにぼやけ、輪郭を結ばない。
文乃は焦燥に駆られ、顔を羊皮紙にこすりつけるようにして凝視した。そこでようやく、彼女はその異変の正体に気づく。
読めないのではない。そこには「読むべき対象」が、物理的に存在していなかった。 経年劣化による虫食い、あるいは意図的な磨耗か。羊皮紙の表面は無惨に削り取られ、文脈を繋ぐはずの重要な文字が欠けていたのだ。
いかに翻訳スキルといえど、この世界に「形」として存在しない文字を読み取ることはできない。文乃は震える指先で、文字の欠落した空白をなぞった。
「……本が、傷ついてる。私のスキルは欠けてしまった言葉を読み取ることはできない。私にはこの著者の想いを知る事が出来ないんだ……」
図書館という聖域で、文字という命を愛してきた彼女にとって、それは解読不能という事実以上に、胸を締め付けられるような光景だった。
その時、背後から呆れたような声が降ってくる。
「文乃、さっきから唸ってばかりだが、便秘か?」
振り返れば、レオネルが立っていた。今日も仕立ての良い騎士服をラフに着崩し、整った顔立ちに悪戯な笑みを浮かべている。文乃はジト目で彼を見上げた。
「違いますっ。これを見てください」
彼女は古文書の真ん中あたりを指差した。そこは虫食いのように穴が空いて欠損した文字があった。
「ここ、物理的に文字が欠けちゃってるんです。私の『翻訳』の力は、そこにある文字を訳すことはできても、消えてしまった文字を想像で補うことはできません。前後の文脈から予測しようとしましたけど……」
「文字として認識出来ない物は、流石に読めないというわけか」
レオネルが顎に手を当てて覗き込む。
「この国の古い歴史書だな。ここが読めないと?」
「はい。前後の文脈からすると、王家の秘密に関わる重要な記述っぽいんです。でも、文化背景が違う私が適当な言葉を当てはめるのは……」
文乃ががっくりと肩を落とすと、レオネルはふっと笑い、文乃の手を引いて立ち上がらせた。
「ならば、年代の近い資料を探しに行こう」
「え? 資料って、ここの図書館にないものは、もうどこにも……」
「表向きはな。だが、城下町の裏通りには『古道具街』と呼ばれる一画がある。そこには他国から流れてきた禁書や、貴族が没落した際に手放した古い写本が並ぶ闇市のような場所があるんだ」
「や、闇市……!?」
文乃の目が輝いた。いけないことだと分かりつつも、本の虫としての好奇心が疼いてしまう。
「正規の手続きで外出申請を出すと、ガルドのやつが煩いからな。――こっちだ」
レオネルは本棚の一部を操作し、隠し通路を開いた。暗い通路の先にある冒険の予感に、文乃はごくりと喉を鳴らし、その背中を追った。
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