第三話 王立図書館の天国と、初代国王の黒歴史
高い城壁と美しい尖塔という幻想的な光景に圧倒されながら、長い回廊を進んでいく。
やがて辿り着いた執務室で、彼女を待ち受けていたのは一人の男だった。
「連れてまいりました」
騎士の言葉に、男がゆっくりと顔を上げる。
「……ほう。この小娘がか」
その男――王立騎士団長、ガルド・シュタインベルク。大柄ではないが、その体つきは研ぎ澄まされた刃物を思わせた。無駄な肉が削ぎ落とされた、しなやかで強靭な肉体。短く切り揃えられた焦げ茶色の髪と、獲物を狙う鷹のような眼差しが、文乃を値踏みするように射抜いた。彼はただそこにいるだけで、場の空気を支配する「武」のオーラを纏っていた。
ガルドは立ち上がり、無言で顎をしゃくった。
「ついて来い」
案内されたのは、歴史の重みを感じさせる巨大な木の扉の前だった。精緻な彫刻が施されたその扉は、ただならぬ威厳を放っている。ガルドは立ち止まると、懐から真っ白な絹の手袋を取り出し、文乃に差し出した。
「着けろ。……それと、靴も履き替えろ。神聖な場所だ。外の汚れを持ち込むな」
その態度は、まるで神殿に参拝するかのような、厳格で手厚いものだった。準備が整うと、ガルドは重い扉をゆっくりと押し開けた。
ギィィィ……。
蝶番の鳴る音とともに視界が開け、文乃は思わず感嘆の声を漏らした。そこは、天井まで届くほどの巨大な本棚が壁一面を埋め尽くす、壮大な王立図書館だった。空気中には古紙とインクの香りが満ち、高い窓からは柔らかな光が差し込んで、宙を舞う塵さえも黄金色に輝かせている。
本を愛する文乃にとって、そこはまさに生涯をかけて探し求めていた天国だった。
ガルドは彼女を中央の大きな閲覧机へと案内し、一冊の古びた革表紙の本を恭しく置いた。
「……読めるか? これは、我がリュクサール王国の初代国王が記した、国の統治と政治理念に関する重要書だ」
試すような声色。文乃は緊張で乾いた喉を鳴らし、恐る恐るその本に手を伸ばした。表紙に書かれた文字は、やはりあの看板と同じ、見知らぬ記号。
けれど、彼女の脳内では、瞬時にその意味が言葉となって溢れ出していく。
文乃は震える指先で、古びた頁をゆっくりとめくった。そこに記されていたのは、崇高な理念とは程遠い、あまりに人間臭い独白の数々だった。
『〇月×日。今日も愛しのマリアと裏庭で会った。彼女の唇は薔薇のように甘く……』 『△月□日。妻の目が怖い。だが今夜は城下の酒場の踊り子、リナとの約束がある。彼女の豊満な胸に顔を埋めると、王の重責も忘れ……』
「…………」
文乃は頁をめくる手をぴたりと止めた。そして、当惑を隠せないままゆっくりと顔を上げ、期待に満ちた眼差しを送るガルドを見つめた。
「あの……」
「どうした? 難解すぎて読めないか?」
「いえ、読めますけれど……」
「ならば内容を言ってみろ。初代国王の崇高なる理念を」
ガルドの真剣すぎる眼差しを前に、文乃は言葉を濁した。けれど、書かれた真実を歪めることは「本好き」としてのプライドが許さない。
「……これ、ただの日記です」
「は?」
「それも……その、初代国王様が、奥様以外の女性と……不倫、でしょうか。逢瀬を楽しんだ記録といいますか、ものすごく赤裸々な女性遍歴の日記です」
一瞬、図書館に凍りついたような沈黙が落ちた。 直後、ガルドの顔が憤怒で真っ赤に染まる。
「貴様ッ! ふざけるな!」
ドォン、と机を叩く凄まじい音に、文乃は思わず肩を震わせた。
「初代国王を愚弄する気か! そんな不埒な内容が書かれているはずがないだろう!」
「で、でも! 嘘ではありません! 本当にそう書いてあるんです!」
「黙れ! 貴様のような小娘に、王家の歴史などわかるはずが――」
「――いや、その子の言うことは正しいよ、ガルド」
凛とした、けれど楽しげな響きを帯びた声が、静寂の図書室に染み渡った。ガルドの怒声がぴたりと止まる。文乃が振り返ると、書架の陰から一人の青年が優雅に姿を現した。
その姿を見た瞬間、文乃の時間は止まった。 身長は百八十センチほどだろうか。窓から差し込む陽光を浴びて、肩まで流れる金色の髪が後光のように輝いている。陶器のように滑らかな肌、整いすぎているほど端正な顔立ち。そして、文乃を見つめるサファイアのような蒼い瞳は、吸い込まれそうなほど深く、美しい。
(な、何……この美貌……。実写とは思えない、まるで絵画だわ)
彼は優雅な足取りで近づいてくると、呆然とする文乃の横に立ち、春の風のような微笑みを浮かべた。
「初めまして。僕はレオネル・リュクサール。この国の第一王子だ」
「お、王子様……?」
「ああ。そして、君に渡したその本は、間違いなく初代国王の『秘密の日記』だよ」
レオネルは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。ガルドが、信じられないものを見るような目で王子を睨みつける。
「おい、レオネル! どういうことだ! 俺には『政治の重要書』だと言って渡しただろう!」
「何故って、君まで騙さなければ、あの警備兵を欺くような真に迫った態度は取れなかっただろう? それに……」
レオネルはクスクスと笑いながら、机の上の日記を指先で弾いた。
「堅物のガルドが、あんなに必死に『不倫日記』を恭しく運んでくる姿……想像しただけで面白いじゃないか。その顔も見れたし、僕は大満足だよ」
「ぐっ!」
ガルドの額に青筋が浮かび、わなわなと震えていたが、やがて盛大なため息をついて肩を落とした。そして、文乃の方に向き直ると、不器用そうに頭を下げた。
「……すまなかった。怒鳴ってしまって。てっきり、ふざけているのかと思ってな……悪かった」
厳格を絵に描いたような騎士団長が、素直に謝罪する。文乃は驚きつつも、「いえ!」と慌てて首を振った。レオネルはその様子を満足げに見届けると、表情を改めた。悪戯っぽさが消え、その瞳には真剣な「王子の顔」が宿る。
「さて……君をここに呼んだ理由を話そう」
彼は図書館の広大な空間を、慈しむように見渡した。
「この王立図書館には、国の歴史、失われた技術、そして世界の真実が眠っている。だが……ここにある古文書のほとんどは、今や誰も読めない『古代文字』で書かれているんだ」
「読めない……のですか?」
「ああ。正確に中身を解読できる者は、もうこの国にはいない。我々は国中を探した。あの立札は、失われた文字を読める『稀人』を見つけるための、最後の賭けだったんだ」
彼は一歩、文乃に近づいた。
「君には、その才能がある。……いや、君こそが、僕たちが待ち望んでいた存在だ」
レオネルは文乃の手を取り、その長い指で優しく包み込んだ。
「頼む。この王立図書館の司書となり、ここに眠る古文書を解読してほしい。君の力で、この国に眠る『声』を蘇らせてくれないか?」
文乃の胸の奥が、熱い波動に満たされた。
この図書館の本たちは、書いた者の意思を誰にも伝えることなく、永い眠りについていた。それを呼び起こす力が、今、自分にはある。
「はい! 私が必ずこの子たちを、永遠の眠りから起こしてみせます!」
文乃は彼の両手を握り返し、少し潤んだ瞳で力強く頷いた。レオネルの顔が、花が咲くように明るくなる。
「ありがとう。やってくれるか」
「はい! こんなにたくさんの本が読めるなんて、私にとってはご褒美みたいなものですから」
「そう言ってもらえると助かるよ。――では、解読した古文書は、一冊ごとに詳細な『報告書』としてまとめ、その進捗も毎日、細かく私に報告してくれ」
「…………はい?」
文乃の動きがぴたりと止まった。感動的な余韻の中に、突如として投げ込まれた「報告書」「進捗管理」という、極めて現実的で世俗的な単語。
「あの……読むだけでは、いけないのでしょうか?」
「読むだけでいいわけがないだろう?」
レオネルは不思議そうに首を傾げた。
「これは趣味じゃない。王国の行く末を担う、重要な国家プロジェクトだ。当然、解読内容の文書化と、アーカイブの作成、そしてリスク管理のための定時報告は必須だよ」
(うわぁ……)
文乃の脳内で、キラキラと輝いていた「本の楽園」が、一瞬にして「ブラックな職場」へと塗り替えられた。好きな本を読むのは至福の時間だ。けれど、それを仕事として、お堅い報告書にまとめるとなると話は別である。
「報告書……めんどくさい……」
思わず、本音が漏れた。その瞬間、横にいたガルドが、信じられないものを見るような目で文乃を射抜いた。
「き、貴様……っ! 『めんどくさい』だと!?」
ガルドのこめかみに青筋が浮かぶ。
「ここにある古文書は国の宝だぞ! それを面倒とは、どれだけ無礼な――」
「まあまあ、いいじゃないかガルド。それくらい素直な方がいい」
レオネルは楽しそうにガルドを制すと、文乃の顔を覗き込んだ。
「確かに、これを一人で記録するのは骨が折れる作業だ。タダ働きさせるわけにはいかないな」
彼は優雅に指を一本立てた。
「なら、こうしよう。一冊解読するごとに、その労力に見合った十分な『給金』を出すというのはどうだ? もちろん、衣食住の保証とは別にね」
「給金」
その甘美な響きが、文乃の鼓膜を震わせた。 (お金がもらえる。しかも、大好きな本を読むだけで!)
カシャン、と文乃の中で、何かのスイッチが切り替わる音がした。彼女はスッと背筋を伸ばし、先ほどまでの曖昧な姿勢を正した。そして、完璧な角度でお辞儀をする。
「改めまして。わたくし、白石文乃と申します」
顔を上げ、凛としたビジネス用の笑顔を浮かべる。
「その条件、謹んでお受けいたします。報告書でも進捗管理でも、何なりとお申し付けくださいませ、クライアント様」
「ぶっ……あはははは!」
レオネルが堪えきれずに吹き出した。お腹を抱えて、涙目になりながら笑っている。
「すごいな、君は! さっきまでの不満顔が嘘のようだ! ははは、現金だなぁ!」
「生きるためには、先立つものが必要ですので」
文乃は凛とした表情で、迷いなく答えた。その横ではガルドが「こいつ……信じられん……」と頭を抱えていたが、彼女の耳には届かない。大好きな本に囲まれて過ごし、その上、正当な報酬まで得られる。彼女にとってこの場所は、まさに天国に他ならなかった。
ひとしきり笑い転げた後、レオネルは目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、改めて文乃へと向き直った。
「気に入ったよ、文乃。その裏表のない性格、この城では何より貴重なものだ」
彼は優雅に右手を差し出した。
「改めて紹介しよう。僕は第一王子のレオネル・リュクサール。そして、こっちで頭を抱えている堅物が、僕の幼馴染で騎士団長のガルドだ。……よろしく頼むよ、我らが『救世主』殿」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
文乃はその手を、今度は対等な「契約」の証として、力強く握り返した。
「さて、契約成立だな。そうと決まれば、まずは形から入るとしよう」
レオネルは満足げに頷くと、文乃の服装を上から下まで品定めするように眺めた。
「君が司書として働くにあたって、相応しい仕事着が必要だ。すぐに城の使用人に命じて、新しい衣服を用意させよう」
「衣服、ですか?」
その言葉に、文乃はハッとして、目の前の男たちの服装を改めて観察した。
騎士団長であるガルドは、無駄のない強靭な肉体に、白銀と黒鉄のハーフプレートを纏っている。その下には黒い肉厚の乗馬ズボンと、重歩兵用のタフな金属入りブーツ。実戦を潜り抜けてきた凄みはあるが、見るからに重そうだ。
一方、第一王子であるレオネルは、仕立ての良い純白の最高級リネンシャツを着こなしている。襟元をボタン二つ分ほどルーズに開け、袖も肘まで無造作に捲り上げ、その上からベルベットベスト。ボトムスはスマートな乗馬ズボンに、完璧に磨かれた黒革のロングブーツ。右手の人差し指には、黄金の獅子が刻印された、重厚なゴールドのサインリングが鈍く光っている。
(うわぁ……いかにも中世ファンタジーの王族と騎士って感じ。確かに格好いいけど……)
さらに文乃の脳裏に、先ほど見かけた城内のメイドたちの姿が浮かんだ。シワ一つない純白のエプロンに、首元までがっちりと詰まった窮屈そうなクラシカルなメイド服。
(無理無理無理!あんなガチガチの衣装で長時間のデスクワークなんてさせられたら、私の軟弱な現代人ボディは三日でへし折れるわ……!)
危機感を覚えた文乃は、すっと人差し指を立てて、笑顔のまま労働条件の交渉に切り替えた。
「レオネル様。雇用に関する要望――いえ、労働環境に関するご提案が一つあります」
「ん? なんだい?」
「お洋服の件ですが、新しく仕立てていただく必要はありません。できれば……このままの格好で、司書としての仕事にあたりたいのです」
文乃は自分の着ているセーラー服の裾を、誇らしげに少しだけ広げてみせた。
「この服は、私が生まれ育った国の伝統的な衣装……いわば、由緒正しき正装なのです。機能性にも優れており、我が故郷の知識人(学生)は皆、これを纏って日夜学問に励んでおります。本を読み解く仕事をするなら、この衣装が最も高いパフォーマンスを発揮できるかと」
大嘘は言っていない。日本の伝統的な学生服(セーラー服)の利便性を、文乃は熱弁した。ガルドが背後で「言われてみれば確かに、どこか趣のある服装だ……」と真面目に納得しかけている。
だが、レオネルはサファイアの瞳を細め、面白がるように片眉を上げた。
「なるほど、故郷の正装か。それは尊重したいが……文乃、その服の『予備』はあるのかい? 毎日同じ服で執務をさせるわけにはいかないだろう」
「あ……」
文乃の思考がピキリとフリーズした。
しまった、と冷や汗が流れる。手ぶらで異世界に飛ばされたのに、予備のセーラー服なんてあるはずがなかった。
(やばい、このままだと明日からガチガチのレトロメイド服で過ごすことに……!)
あからさまに泳ぐ文乃の黒縁眼鏡の奥の瞳。
それを見たレオネルは、すぐにすべてを察したように「ふっ」と優しく吹き出した。
「はは、分かりやすいな。まあいいさ、事情は追々聞くとしよう。……アルノルト」
「はっ。ここに」
レオネルが呼ぶと、どこからともなく白髪を完璧に撫でつけた老執事が、影のように姿を現した。
「王室御用達の仕立て屋を呼べ。文乃が着ているその『伝統衣装』の作りを調べさせ、可能な限り同じ物を作らせるんだ。洗い替えも含めて三着ほどな」
「畏まりました。ただちに手配いたします、殿下」
老執事は完璧なお辞儀をして、再び音もなく退室していった。
文乃は胸を撫で下ろし、今度は心からの感謝を込めて微笑んだ。
「ご理解ありがとうございます、レオネル様。最高の仕事でお返しいたしますね」
「期待しているよ」
レオネルは悪戯っぽくウインクしてみせ、文乃の「快適な読書生活」は、こうして無事に守られた。
その時ふと、彼女の中に澱んでいた素朴な疑問が口をついた。
「ところで、一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「なんだい? 報酬の交渉なら、後で財務官を通すが」
「いえ、そうではなくて……。どうして初代国王様は古代文字を自在に操れたのに、その技術は継承されなかったのですか?」
それこそが最大の謎だった。日記を綴るほど流暢に使いこなしていたのなら、なぜ子孫に教えなかったのか。そうすれば、国の歴史が失われる悲劇は起きなかったはずだ。
「ああ、それか」
レオネルは、今日の天気を語るような軽い調子で応じた。
「初代国王は代々古代文字を受け継ぐ由緒ある家系だった。だが……さっきの日記を見ただろう?」 「ええ。あまりに赤裸々な不倫日記でした」
「そう。彼は自分の情事や性癖を、誰にも知られないよう古代文字で綴っていた。だから――」
レオネルは可笑しそうに肩をすくめた。
「『死後、自分の恥ずかしい日記を子孫に読まれたくない』。……ただそれだけの理由で、彼は次の代への古代文字の伝承を途中で止めてしまったんだよ」
「…………は?」
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