第二話 黒髪の異邦人と、白銀の騎士
――意識は、そこでぷつりと途切れた。
文乃が次に意識を取り戻したとき、頬を撫でたのは硬い床の冷たさではなく、春の日差しを吸い込んで微かに熱を帯びた、石畳のざらつきだった。
「……え?」
安堵の吐息を漏らし、彼女はゆっくりと上体を起こした。眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、自身の置かれた状況を確かめるべく周囲を見渡した瞬間――文乃は息を呑んだ。
そこは、彼女の知るどんな場所とも切り離された世界だった。
足元に広がるのは、精緻に整備された石畳の道。その上を、タイヤの唸りを上げる自動車ではなく、木製の荷馬車がガラガラと情緒ある音を立てて行き交っている。道の両側に立ち並ぶのは、石と木材を組み合わせた重厚な建築物だ。二階部分が少し張り出したその構造は、かつて彼女が建築史の本で目を細めて眺めた、中世ヨーロッパの民家そのものだった。
けれど、何かが決定的に違う。文乃が本で知る中世の都市は、もっと不潔で混沌に満ちていたはずだ。道には汚水が溢れ、悪臭が漂い、建物も粗雑であったと記録されていた。
なのに、ここは違う。空気は驚くほど澄み渡り、不快な臭いは一切しない。道端には塵ひとつなく、石畳はまるでモザイクアートのように美しく敷き詰められている。窓ガラスは曇りなく磨かれ、道行く人々の衣服も清潔で、鮮やかな色彩を放っていた。
「いらっしゃい! 新鮮な果物だよ!」 「ママ、見て! 綺麗な色の鳥がいるわ!」
行き交う人々の活気に満ちた声。透き通るような白磁の肌を持つ者、健康的な褐色の肌を持つ者。髪の色も、金、赤、緑、青と、まるで宝石箱をひっくり返したように多種多様だ。その光景は、文乃の脳裏にある「現実」という定義を、音を立てて崩していく。
(……異世界だ)
その言葉が胸に落ちた瞬間、文乃の心臓はドクリと大きく跳ねた。恐怖だろうか。いいえ、違う。胸の奥から湧き上がってきたのは、抑えきれない歓喜だった。大好きな物語の世界に、自らの足で飛び込んだような、めくるめく感覚。
「ふふっ……」
自然と笑みがこぼれた。不思議なことに、通り過ぎる人々の言葉が、まるで日本語のようにスッと頭に入ってくる。店先に掲げられた看板の文字は、見たこともない記号の羅列なのに、なぜか瞬時にその意味が理解できた。
『焼きたてパン』『道具修理』『新鮮野菜』――。
(これが、異世界を舞台にした物語によくある「言語の加護」かしら。……なんて便利なの)
文乃はまるで小説の主人公になったような高揚感に包まれ、興奮気味に周囲を見渡した。もっと見たい、もっと知りたい。この世界の隅々まで、この瞳に焼き付けたい。その純粋な渇望が彼女を突き動かした、その時だった。
「おい、そこのお前」
突然、背後から重い衝撃が走り、文乃の華奢な肩が掴まれた。驚いて振り返ると、そこにはいかにも強面な、鈍色の鎧を纏った男が立っていた。警備兵だろうか。彼は文乃の顔を覗き込み、眉間に深い皺を寄せる。
「見ない顔だな。その奇妙な服……それに、黒髪に黒目か。どこの国の人間だ?」
「え、あ、私は……」
「怪しい奴だ。ちょっと詰所まで来てもらおうか」
無骨な指が、文乃の二の腕に食い込む。現実に引き戻されるような冷や水を浴びせられ、彼女は必死に声を上げた。
「待ってください!私は怪しいものではありません、ただ道に迷って……」
「問答無用だ! 話は向こうで聞く!」
警備兵は聞く耳を持たず、彼女を強引に引っ張っていく。抵抗しようにも、鍛えられた男の力には到底敵わない。
(転生早々、牢屋行きだなんて……)
焦燥で視界が滲みかけたその時、道端に立てられた一枚の立札が、文乃の目に飛び込んできた。そこには、看板と同じ奇妙な文字で、こう記されていた。
『この文字が読める者、その隣に立つ騎士の右肩を三回叩け』
(……え?)
あまりに奇妙な指示。けれど、それは荒波の中で見つけた唯一の浮き木のようだった。立札の横には、警備兵とは明らかに雰囲気の違う、白銀の鎧をまとった騎士が直立不動で佇んでいる。
「離してっ!」
文乃は火事場の馬鹿力を発揮し、警備兵の手を振りほどいた。転げるように駆け出し、白銀の騎士の背後に回り込むと――バン、バン、バン。右肩の甲冑を、思い切り三回叩いた。
騎士が、弾かれたように振り返る。兜の奥から覗く鋭い眼差しが、文乃を見下ろした。
「……何だ、貴様は」
「よ、読めました! その看板の文字!」
文乃は息を切らしながら訴えた。騎士の瞳が、驚きに見開かれる。
「……本当か? この古代文字が、読めるというのか」
「はい! 『この文字が読める者、隣の騎士の右肩を三回叩け』と……そう書いてありました!」
騎士は数秒間、文乃を凝視した後、短く、重みのある頷きを返した。
「ついて来い。城へ案内する」
慌てて追いついてきた警備兵が腕を掴もうとするが、騎士は氷のような冷気を孕んだ声で一蹴した。
「……退がれ。お前は今、誰に向かって口を利いているかわかっているのか?」
その圧倒的な威圧感に、警備兵の顔色はサッと青ざめ、逃げるように立ち去っていった。安堵する間もなく、文乃は無言で歩き出した騎士の広い背中を追った。辿り着いたのは、街の中央にそびえ立つ、巨大な白亜の城。
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