第一話 白石文乃
放課後を告げる乾いたチャイムが鳴り終わるよりも早く、白石文乃は手慣れた動作で教科書を鞄に滑り込ませた。
高校2年生という、受験の足音が背後に迫り、周囲が将来への不安と期待に浮足立つ季節。そんな喧騒をすり抜け、彼女が向かう目的地はただひとつ。
――学校の図書室。
文乃にとって、放課後の図書室へ向かう時間は一日の中で最も胸が高鳴る瞬間である。
黒縁メガネの奥に宿る瞳は、すでに今日の「獲物」を探し求めて鋭く、それでいて愛おしげに輝く。
この学校の図書室に並ぶ本は、すでに全て読破済み。
辞書から詩集、図鑑に小説、さらには誰も手に取らないような難解な専門書に至るまで、片っ端から読み尽くした。
だからこそ、新刊が入ったときの喜びは、彼女にとって人生の最重要事項だった。
もし他の生徒に「放課後、何が一番の楽しみ?」と聞かれれば、返ってくるのは部活や買い食い、あるいは友人との尽きないお喋りだろう。
けれど、文乃の答えはひとつしかない。
「図書室の新しい本を借りること」
そう、彼女にとってそれは、多感な時期の恋愛や友情よりもずっと、優先度の高い聖域なのだ。
今日もまた、少し重たいお下げを揺らしながら、文乃は静かに、けれど逸る心で図書室の扉を押し開けた。
文乃は足早に新刊コーナーへと向かった。
今日も貸し出し可能な上限いっぱいまで借りるつもりだ。しかしその前に、まずは新刊の顔ぶれを一通り、恋人の横顔を眺めるような繊細な視線で確認しなければ――。
手を滑らせぬよう丁寧に棚の前に立ち、順番に背表紙をなぞっていく。すると、あらかじめ頭に叩き込んでいた新刊リストと比較して、実際に並んでいる本の数が一冊足りないことに気づいた。
「……あれ?」
棚から落ちたのだろうか。文乃は思わず床に這いつくばり、視線を近づけて探す。白いブラウスの裾を気にすることもなく、隅々まで見渡すが、それでも目的の一冊は見つからない。
必死に探していると、背後からふんわりとした声が聞こえた。
「おーい、何してんの?」
不意に響いたその声に、文乃は弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、幼稚園時代からの付き合いになる幼馴染だった。
文乃とは正反対の人生を歩んでいるような男子。二年生にしてサッカー部の副キャプテンを任されるほどスポーツ万能で、異性からの人気も高い――まさに、眩しい青春の特等席にいるような存在。
「……何か用なら、今は忙しいから後にしてくれる?」
本の所在に気を取られたまま、文乃はぞんざいにそう言い放とうとした。だが、言葉が喉に詰まる。
彼の大きな右手に、さっきまで必死に探していた一冊が、当然のように収まっていたからだ。
「あんた、本なんか読まないでしょ?」
思わず眉をひそめて問いかけると、彼は口の端をわずかに吊り上げ、どこか楽しげに微笑んだ。
「これは俺が先に借りようと手に取ったんだ~。譲って欲しいなら、俺に付き合ってくれない?」
「は? 冗談なら後にしてよ。私は——」
文乃が本を取り返そうと、すばやく彼の右手へと手を伸ばす。だが、その瞬間。
不意に、横から伸びた白い指が二人の間に割り込み、本をするりと奪い去った。
一拍の沈黙が、重く図書室に落ちる。
「——え?」
振り返ると、その本をひょいと掴んでいたのは、同じクラスの女子だった。
「ごめーん、これ私が借りるわ」
口調は軽やかだが、その目は意地悪く細められている。
文乃の背後で、幼馴染が小さく眉をひそめた。女子はその視線を逃さず、わざとらしいほどの笑顔を見せた。
「あーあー辛気臭い。こんな薄暗くて、湿っぽいところにずっといたら、私たちまでカビ臭くなっちゃうわ」
彼女の態度はあからさまだった。幼馴染に向ける執着も、文乃への隠しきれない敵意も。
「その本を返しなさい。本は人が生きた証。人の人生そのものなのよ!」
凛とした文乃の拒絶は、女子の予想を超えていたらしい。彼女は分かりやすく狼狽え、顔を赤らめた。
「こんなもの、ただの紙の束じゃない! 何マジになってんの!? ほら、そんなに大事なら取り返してみなさい?」
女子はわざとらしく、春の風が吹き込む窓際に歩み寄ると、本をひらひらと揺らした。ページがぱらぱらと捲れる音が、やけに冷たく響く。
「ちょ、ちょっと待って! 何してるの!」
文乃は思わず声を上げ、机を回り込んで駆け寄った。
女子は振り返りもせず、唇の端を歪める。
「どうしようかなぁ? 返してあげようかなぁ~」
その時、本が窓の外に吸い込まれそうに傾いた。
文乃は女子の手元から滑り落ちそうになった本に、反射的に身を乗り出した。
「返して!」
窓の外に突き出された本を、指先がかすめる。
けれど、女子は冷ややかな笑みを浮かべ、無情にも指先から力を抜いた。
色鮮やかな装丁の紙の束が、宙を舞い、奈落へと落ちていく。
その瞬間、文乃の身体は考えるよりも先に前へと躍り出ていた。
――ガタンッ。
「う! 嘘でしょ!?」
窓枠を掴む間もなく、重力に引きずられる。
風景が逆さまに流れ、耳をつんざくような風の音が轟いた。
舞い散る花びらの中に、高校2年生の春が遠ざかっていく。
「文乃ーーーー!」
幼馴染の叫び声が、遠い記憶の底から響くように聞こえた。
視界が揺れ、急速に深い闇に呑み込まれていく。
最後に見たのは、青空へ落ちていく本の背表紙と、空を切るように伸ばされた、誰かの白く震える手だった。
――意識は、そこでぷつりと途切れた
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