第二十四話 余計な一言と、地獄のレンジャー訓練
暖かな日差しが降り注ぐ午後。王立図書館の奥深く、彼女専用の聖域となったデスクで、今日も今日とて分厚い書物とにらめっこをしている。窓から差し込む陽光が、彼女の艶やかな黒髪を照らし、背中まで長く垂れたお下げ髪が、ページをめくるリズムに合わせて静かに揺れていた。
窓の外からは、さえずる小鳥の声、廊下を行き交う使用人たちの笑い声、遠くから響く馬術訓練の蹄音――。
王城の日常は常に音に満ちている。だが「活字中毒」の文乃にとって、それらはただのBGM。意識の深層に届くのは、紙が擦れる乾いた音と、インクの匂いだけだった。
――その静寂は、雷のような衝撃によって破られた。
「貴様らァ! なにをしているッ!!!」
怒号が図書館の厚い石壁さえ突き抜け、文乃の鼓膜を直接殴打した。
「ひゃあっ!」
情けない悲鳴と共に、文乃は椅子から見事に転げ落ちる。抱えていた古文書と共に床を転がり、黒縁眼鏡がずれて視界が歪んだ。
「だ、誰よ!? 私の人生唯一の楽しみを邪魔するなんて……! 一体どこのどいつ!?」
悪態をつきながら眼鏡を押し上げ、乱れたお下げ髪を背中に払い除ける。文乃は怒りに肩を怒らせながら窓へ駆け寄った。
眼下の広場には、異様な光景が広がっていた。 甲冑の擦れる音、剣と盾の金属音、そして地鳴りのような足音
。
――王立騎士団が整然と行軍しているのだが、彼らの肩には人間一人分はあろうかという巨大な麻袋が担がれている。騎士たちの顔は苦痛に歪み、足取りは鉛のように重い。
文乃は眉をひそめた。どこかで見覚えがある光景だが、記憶の引き出しが開かない。
「たるんでいるぞ! 足が止まっている!」
再び響く怒声。堪忍袋の緒が切れた文乃は、窓枠をバンと叩き、足早に図書館を飛び出した。
訓練場は、埃と男たちの汗の匂いが立ちこめていた。その中央で、仁王立ちで怒号を響かせていたのは一人の男――騎士団長、ガルド・シュタインベルクだ。鋼のように硬い筋肉を覆う鎧、短く刈り込まれた髪、そして歴戦の老兵にも劣らぬ武骨な顔つき。彼が吠えるたび、空気がビリビリと震える。
「気合いを入れろ! 貴様ら、それでも王立騎士団か!」
その威圧感は凄まじいが、怒れる文乃には関係なかった。彼女はズカズカと歩み寄ると、は鋼鉄のような男を見上げて食ってかかった。
「ちょっと! ガルドさん!こっちは王子様直々に本の解読作業を仰せつかってるんです!その騒音で集中できないんですけど!他所でやってくれません!?」
鋭い目で振り返ったガルドは、文乃を一瞥して眉間に深い皺を寄せた。
「……文乃か。邪魔をするな」
「邪魔してるのはそっちです!」
「我ら騎士団の訓練も、国王陛下から直々に承った大任だ。場所を変えろと言われて変えられるものではない!」
ガルドは、レオネルと話している時の気の良い男とは別人のように高圧的だった。その瞳には、甘えを一切許さない軍人の冷徹さが宿っている。正論で返され、文乃はぐぬぬと言葉を詰まらせた。ふと、行軍する騎士団の列へと視線をやる。
そこには――地獄があった。
「……え?」
行軍の列から、次々と騎士が足をもつれさせ、麻袋を抱えたまま地面に崩れ落ちていく。ガシャーン、ガシャーンと甲冑が悲鳴を上げ、屈強な男たちが泥にまみれて倒れ伏す光景は、さながら敗戦直後の戦場のようだ。
文乃は呆然と呟いた。
「……全滅しかけてません?」
あまりの惨状に、つい口が滑る。
「……そうか、自衛隊のレンジャー訓練に似てるんだ」
「……ジエイタイ?」
低く響く声に振り返ると、ガルドが怪訝そうに片眉を上げていた。猛禽類のような鋭い視線が、文乃の一言を逃さず捉える。
「あ、いや……えっと」
文乃は焦ってお下げ髪の先をいじりながら、しどろもどろに説明を始めた。
「私が住んでいた国には、軍隊ってものは無くて……代わりに“自衛隊”っていう組織があるんです。国を守るための特別な人たちで……」
「ほう……」
ガルドの目が細く光り、あからさまに興味を示した。
「たしか本で読んだことがありますけど……入隊したての候補生でさえ、十五キロの背嚢に三・五キロの小銃……武器を抱えて二十五キロ行軍するんです。しかも精鋭部隊の“レンジャー訓練”では……食料も現地調達、不眠不休で百キロ以上を歩き抜く、とか」
言い終えると、広場に一瞬の沈黙が落ちた。 次の瞬間――。
「……なんとっ!」
ガルドが分厚い胸板に手を当て、感銘を受けたように瞳を輝かせた。その声は訓練場に轟く雷鳴のようだ。
「その“ジエイタイ”とやら……国への忠誠と極限の鍛錬、まさに騎士の鑑ではないか!これこそ我が騎士団が学ぶべき精神だ!」
「ちょ、ちょっと待って!?」
ガルドの熱弁が風を裂く一方、文乃の制止の声はかき消される。地面に這いつくばっていた騎士団員たちの顔から、サーッと血の気が引いていくのが見えた。“二十五キロ”の時点で既に絶望、“百キロ”に至っては魂ごと口から抜け出たような虚ろな目をしている。
文乃は両手で頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになった。
「……やっちゃった……完全に余計なこと言ったぁぁ……」
地面に倒れた騎士たちの呻き声と、ガルドの熱気に包まれた訓練場に、文乃の後悔の声だけがむなしく木霊した。そして、騎士団員たちの視線が一点に集中する。
そう――文乃である。
(ひぃぃっ……!)
怨霊のごとき黒い視線。汗と泥にまみれた顔から迸る無言の怨嗟。
「お前のせいだ」という呪いの声が聞こえてきそうだ。文乃はその圧に耐え切れず、長いお下げ髪を振り乱して踵を返した。
「し、知らない! 私は何も知らない! 悪いのは……そう、口が滑った私だけど、悪気はなかったの!」
ぶつぶつ言い訳をしながら、全力で図書館へと逃げ帰る。本の山に飛び込み、外界を遮断して解読作業という名の現実逃避に没頭した。
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