第二十ニ話 戦わずして勝つ、偉大なる血脈
翌日。国境、竜骨鉱山。ゴツゴツとした灰色の岩肌が露出する荒涼とした大地に、冷たい風が吹き荒れている。リュクサールとヴァルデン、両国の使節団が対峙していた。一触即発の緊張感の中、レオネルはヴァルデン側の代表を睨みつけている。
ヴァルデンの代表は、日に焼けた肌と深い皺を持つ、厳格な初老の男だった。その目は飢えた狼のように鋭く、余裕がない。
「話は平行線だ。鉱山を渡さぬなら、我々は力ずくでも奪う」
ヴェルデン代表の言葉を好機と見たボドワンが、レオネルの背後へ音もなく忍び寄る。彼は獲物を追い詰める蛇のような粘り気のある声で、レオネルの耳元に囁いた。
「お聞きになりましたか、殿下。あちらはもはや、対話の余地など求めておりません。あれは宣戦布告も同然……。今ここで即断し、我が軍の精鋭を叩き込まねば、周辺諸国はリュクサールの『弱腰』を笑い、次々と牙を剥くでしょう」
レオネルの肩が、微かに強張る。ボドワンの言葉は、王族としての責務という名の鎖となってレオネルの思考を縛り上げていた。ボドワンの邪悪な期待を背負い、レオネルは苦渋に満ちた決断を下そうと、ゆっくりと唇を開いた。
「やってみるがいい。我が国は一歩も譲る気は無い」
レオネルが一歩踏み出した、その時。
「――待ってください!」
凛とした声が岩場に響いた。レオネルが驚いて振り返ると、そこには文乃を伴ったノエルが立っていた。強風に煽られ、華奢な身体がよろめきそうになる。それでも彼は、一歩、また一歩と、両軍の間に進み出た。
「ノエル! 下がっていろ!」
兄の制止を無視し、ノエルはヴァルデン代表の前に立った。
「……ヴァルデン特使。あなた方の国が今、未曾有の干ばつに苦しんでいることは知っています」
その一言に、代表の男の顔色が微かに変わった。
「……なぜ、それを」
「調べました。あなた方が鉱山を欲するのは、鉄資源を売って食料を買うため……違いますか?」
図星だった。ヴァルデンは侵略欲ではなく、生存のために追い詰められていたのだ。ノエルは文乃から受け取った地図を広げた。
「この鉱山の地下には、巨大な水脈が眠っています。地表の岩の侵食、そしてこの一帯にだけ群生する湿地性の植物……それらが証拠です」
ノエルは足元の岩場に咲く小さな白い花を指差した。
「もし無理に鉱山を掘り進めれば、水脈は汚染され、枯れ果てるでしょう。そうなれば、あなた方の国に流れる川も死に、干ばつは永遠のものとなる」
ヴァルデン代表が息を呑む。
「だ、だが……我々にはもう、後がないのだ!」
悲痛な叫びに対し、ノエルは静かにあの日記を開いた。そして、朗読を始めた。三百年前の王が遺した、魂の言葉を。
『友よ。我らはこの山頂で杯を交わし、誓った。この山から湧き出る水は、大地を潤す母であり、我ら両国の絆そのものであると』
『国が違えど、民を思う心は同じ。苦しい時は分け合い、富める時は共に祝う。それが我らの盟約だ』
ノエルの声は、決して大きくはない。だが、風の音さえ止んだかのような静寂の中、その言葉は両軍の兵士たちの胸に染み渡った。記録としての「条約」ではない。人間としての「想い」が、時を超えて蘇る。
ノエルは日記を閉じ、真っ直ぐに代表を見つめた。その深緑の瞳には、もう迷いも劣等感もない。
「……かつて、我々の祖先は手を取り合いました。僕たちに、できないはずがありません」
「我々は提案します。鉱山の共同管理と、水脈の保護。そして――地下水脈を利用した灌漑水路の建設を」
文乃がすかさず補足資料を提示する。
「水があれば、あなた方の土地は蘇ります。鉄を売るよりも、ずっと確実に民を救えるはずです!」
ヴァルデン代表が苦悶の表情を浮かべる。
「だが……水路が完成し、大地が実りを取り戻すまでには時がかかる!民の飢えは、明日をも待ってはくれないのだ!」
その悲痛な叫びに、ノエルは静かに頷いた。
「ええ、存じています。ですから――手は打っておきました」
ノエルの合図で、文乃がもう一枚の羊皮紙を広げる。そこには、周辺諸国の王印が押された書状が並んでいた。
「次の実りの季節まで、リュクサール主導のもと、周辺三国からの緊急食糧支援を取り付けました」
その言葉が放たれた瞬間、その場を支配していた「主戦論」の熱気が、冷や水を浴びせられたように凍りついた。
「な……っ!?」
真っ先に声を上げたのは、軍部大臣ボドワンだった。 彼はまるで猛毒を飲み下したかのような、凄まじい形相でノエルを凝視した。
「ま、まさか……あのお遊びのような茶会か!? 周辺国の王妃たちを招き、女子供の世間話に興じていた、あの場でそんな話を付けていたというのか!?」
ボドワンの脳裏に、数日前の情景が蘇る。庭園で優雅にティーカップを傾け、王妃たちと微笑み合っていたノエルの姿。あの時、自分はそれを「無能の極み」だと嘲笑し、切り捨てた。
だが、その裏でノエルは――茶会の華やかさを隠れ蓑にして、「食糧余剰」と「ヴァルデンへの同情」を繋ぎ合わせ、巨大な外交包囲網を完成させていたのか!?
ボドワンの顔は、屈辱と怒りで土色に変色していく。自分が手駒として操っていたはずの「戦争」という舞台が、たかだかティーカップ一杯の「お茶」によって根底から覆された。その事実が、老獪な政治家である彼のプライドをズタズタに切り裂いていた。
「ノエル、いつの間に……?」
レオネルが目を見開いて弟を見た。
ノエルは、兄の驚きを静かに受け止めると、一歩下がって恭しく頭を下げた。
「兄上。この支援内容は、あくまで緊急の応急処置に過ぎません。……正式な国書としての支援要請、およびヴァルデンとの細かな条約の締結は、どうか兄上と父上の御名において引き継いでいただけないでしょうか」
そしてノエルは、怒りと屈辱で顔を歪め、今にも爆発しそうになっている軍部大臣ボドワンの方を向き、静かに、そして深く頭を下げた。
「ボドワン大臣。この和睦の条約を確固たるものにするためには、大臣の力が必要不可欠です。どうか、これから行われる会談、そして要人たちの警護を、貴方の率いる軍部に一任させていただけないでしょうか」
「……何だと?」
ボドワンが虚を突かれたように目を見開いた。ノエルは顔を上げ、真摯な眼差しで続けた。
「不安定な情勢下での条約締結です。ヴァルデン内部の過激派が動かぬとも限りません。……この任務は、国のために剣を持ち、規律を守り抜いてきた『軍』にしか成し得ない、極めて重要で名誉ある任務です。どうか、この国の未来を、大臣の剣に守っていただきたいのです」
その言葉は、ボドワンが振り上げた拳を、見事なまでに優しく包み込んだ。「戦による功績」を奪われたことに激昂していたボドワンだったが、「国を救う条約を守る」という大義名分を与えられ、毒気が抜かれたように毒々しい表情を和らげた。
(……この小僧。私を疎外するのではなく、軍の体面を保つための『花道』を用意したというのか)
ノエルの提案は完璧だった。軍部を「戦争の道具」としてではなく、「平和の守護者」として定義し直すことで、彼らの存在意義を認めてみせたのだ。
「……ふん。殿下がそこまで仰るのなら、致し方あるまい。我が軍の精鋭を出し、鼠一匹通さぬ警護を敷いて見せましょう」
ボドワンは不遜に鼻を鳴らしたが、その声に先ほどまでの殺気はない。
ノエルの提案を聞いた瞬間、レオネルの瞳に熱いものが去来した。ノエルが言いたいことは、痛いほど伝わってきた。功績を独り占めするのではなく、最終的な和睦の主導権を「次期国王」であるレオネルと国王に譲るというのだ。そして、面目を潰された軍部を黙らせ、王家の威信を保つための、弟なりの最大限の配慮だった。
「……お前というやつは」
レオネルは拳を固く握りしめた後、深いため息とともにその力を抜いた。目の前にいるのは、かつて自分の後ろをついて歩くだけだった弱々しい弟ではない。一滴の血も流さず、知恵だけで国を救った、誰よりも気高い「軍師」の姿だった。
レオネルはノエルの正面に立つと、腰の剣を鳴らして深く頭を下げた。
「感謝する、ノエル。……お前の深い慈悲と、その揺るぎない覚悟。王族として、そしてお前の兄として、心から敬意を表したい。この和睦のバトン、確かに引き受けた」
ノエルは少しだけ頬を赤らめ、はにかむように微笑み、再びヴァルデン代表に向き直る。
「次の収穫期まで、リュクサールが責任を持ってあなた方の民を支えます。ですから、どうか剣を収めてください」
完璧だった。
理想だけでなく、現実的な生存の道筋までもが、完璧に用意されていた。ヴァルデン代表の肩が震える。もはや戦う理由は何もなかった。飢える民を救うための戦いだったはずが、目の前の若き王子は、戦わずして民を救うと言っているのだ。
ヴァルデン代表の肩が震えた。飢える民の顔、枯れた大地。それらを救う道が、略奪以外の方法で示されたのだ。やがて、彼は武器を捨て、その場に膝をついた。
「……我々は、道を誤るところだった……。感謝する、リュクサールの王子よ」
岩場に、安堵の息と、拍手がさざ波のように広がっていく。
だが、ノエルはまだ終わらせなかった。
「文乃さん、あれを」
「はい、重かったですからね。どうぞ」
文乃が背負っていた荷物から取り出したのは、二本の酒瓶と、銀の杯だった。一本はリュクサールの豊かな麦で作られた黄金色のエール(麦酒)。もう一本は、ヴァルデンの厳しい寒さの中で造られる透明な蒸留酒だ。
ノエルは手際よく二つの杯に、それぞれの酒を注いだ。そして、ヴァルデン代表と、驚く兄レオネルに一つずつ手渡した。
「見てください。片や豊かな泡を湛えた黄金の酒、片や喉を焼くほどに強い透明な酒。製法も味も、まるで違う別々の酒です。ですが――」
ノエルは自らの杯を夕陽にかざした。
「どちらの酒も、その命の源は、この竜骨鉱山の清らかな『仕込み水』なのです」
レオネルと代表が、ハッとして手元の杯を見つめる。
「麦をふやかし、あるいは原酒を割り、味を整える。その全工程において、この山の地下水脈が使われています。生まれた場所や姿形は違えど、その根底に流れる命の源は同じ。我々もまた、そうです。国境という線を引かれてはいますが、この山脈の血脈を受け継ぐ、同じ水を飲んで育った兄弟なのです」
ノエルの声が、優しく、けれど力強く響き渡る。
「兄弟が殺し合う道理はありません。……さあ、かつての王たちのように、杯を」
ヴァルデン代表の目から、一筋の涙が伝い落ちた。彼は震える手で杯を掲げた。
「……兄弟、か。ああ、その通りだ」
レオネルもまた、万感の思いを込めて杯を掲げる。
「乾杯しよう。……この山の、偉大なる血脈に」
チン、と澄んだ音が荒野に響いた。それは、数百年前に途絶えた友情が、再び結ばれた音だった。
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