第二十一話 お茶会(アフタヌーンティー)の合戦
王立図書館の最奥。文乃は、埃とカビの匂いが充満する空間で、ひとりランプの灯りを頼りに羊皮紙の山と格闘していた。
「交渉材料になるような情報……記録じゃなくて、もっと根本的な……」
――尊い命を、無駄に捨ててほしくない。彼のその想いは、決して間違いではないはずだ。
分厚い歴史書を一冊、また一冊とめくる。時代ごとの年号、採掘量、国境線の変遷。そんな無機質な数字の羅列に、文乃の目が疲労で霞む。ため息をつき、本を閉じようとしたその時。棚の隙間に挟まっていた、装丁もされていない一束の古びた紙束が目に留まった。
「……なにこれ? 公文書じゃない……日記?」
手に取ると、革紐が切れそうなほど劣化している。 ページを開くと、そこには几帳面だが、どこか温かみのある手書きの文字が綴られていた。日付は三百年前。著者は――当時のリュクサール国王だ。
『今日、親友であるヴァルデン王と竜骨山へ登った。互いの国の未来について語り合い、山頂で酒を酌み交わした』
文乃の手が止まる。三百年前、両国は敵対関係ではなく、王同士が親友と呼べる間柄だった?さらに読み進めると、ページの間に挟まれていた一枚の地図が滑り落ちた。そこには、鉱山の地下深くに広がる、青いインクで描かれた複雑な線が記されていた。
『この山には、龍の血脈の如き水が流れている。我らは誓った。この清らかな水を、決して争いで汚してはならぬと。これは我ら二人の、魂の盟約である』
「……これだ」
文乃の指先が震える。これは単なる資源の記録ではない。先人たちが遺した、国境を超えた「友情の記憶」だ。そして地図が示す「地下水脈」の存在。もしこれが事実なら、鉱山開発はただの利益の問題ではなくなる。
文乃は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「伝えなきゃ! これが、ノエル様の武器になる!」
長いお下げ髪を背中で踊らせ、文乃は深夜の回廊を駆け出した。
***
「……そんな古い日記が、何になる」
執務室。寝間着姿のレオネルは、文乃が差し出した紙束を一瞥しただけで、冷ややかに切り捨てた。 窓の外はまだ暗い。蝋燭の炎が、王子の整った横顔に深い影を落としている。
「レオネル様!でも、ここには両国の王が友情を誓った記録が……!」
「文乃。現実を見ろ。ヴァルデンは今、軍を動かそうとしているんだ。数百年前に死んだ王たちの感傷で、今の敵が止まると思うか?」
その声は低く、王としての重責に押し潰されそうなほど硬い。
「俺は国を守らねばならない。情に流される暇はないんだ」
拒絶の言葉に、文乃は唇を噛んだ。レオネルの言うことは正しい。政治とは、結果が全てだ。ポエムのような日記で戦争が回避できるなら苦労はしない。 だが――。
失意のまま執務室を出た文乃は、廊下の角で人影とぶつかりそうになった。
「あ……」
「……文乃さん?」
そこに立っていたのは、ノエルだった。眠れなかったのだろうか、その顔色は月明かりの下でさらに蒼白に見える。彼は文乃が抱えていた古い紙束に目を留めた。
「それは……?」
文乃は迷った末、レオネルが読めるように書き直した日記と地図をノエルに手渡した。
「……あなたなら、この意味が分かると思って」
ノエルは細い指でページをめくる。その深緑の瞳が、文字を追うごとに揺らぎ、やがて静かな光を宿していった。
「……水脈。そして、誓い……」
彼は顔を上げ、文乃を見た。その瞳には、初めて見る強さが宿っていた。
「兄上は、これを?」
「……感傷だと、却下されました」
ノエルは小さく苦笑し、手記を胸に抱きしめた。
「兄上らしい。……でも、僕には聞こえる。この文字に込められた、先人たちの切実な祈りが」
文乃は一歩踏み出し、ノエルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ノエル様。レオネル様は剣で国を守ろうとしています。でも、剣で斬った傷は、いつかまた新たな憎しみを生む」
彼女は、彼の一番弱い部分であり、最強の武器である部分を指差した。
「あなたは戦わずに守りたいと言った。その優しさは、弱さじゃない。……剣を持たないあなたにしか、振るえない武器があるはずです」
その言葉は、ノエルの心の奥底にあった氷を溶かした。彼はゆっくりと頷き、銀灰色の髪を揺らして顔を上げた。
「……行きましょう、文乃さん。僕たちの戦場へ」
ノエルの決意に満ちた言葉が、静かな図書館に凛と響いた。その言葉に文乃も決意を固め、パチンと指を鳴らして作戦の第一歩を切り出した。
「ええ、行きましょう。まずは――周辺国の王妃様方を招いて、最高に優雅なお茶会を開催しましょうか」
「……えっ? お、お茶会、ですか?」
あまりに戦場からかけ離れた単語に、ノエルは拍子抜けしたように目を丸くした。毒を食らわば皿まで、と覚悟を決めていた彼は、文乃の意図が掴めず困惑している。
「文乃さん、今は一刻を争う事態です。どうしてお茶会なんて……。まさか、現実逃避ではありませんよね?」
「失礼ですね。これは立派な『合戦』の準備ですよ、ノエル様」
文乃は机の上に積まれた古文書から目を上げ、記憶の引き出しにある「日本の歴史」を頭の中で紐解いた。
「かつて、私の生まれた遠い国で天下統一を果たした豊臣秀吉という英雄がいました。その彼が、ある時、自分の軍師だった黒田官兵衛という男に言ったのです。官兵衛は『茶の湯』なんて狭い場所で、主催者と客が不用心に座るなど危険すぎる、と嫌っていました。ですが秀吉はこう返したのです」
文乃は眼鏡の縁をくいと上げ、芝居がかったトーンで言葉を継いだ。
「『密談ができることこそ、茶の湯の利点である』。……何もない日に、お前を呼んで密談をすれば、周囲に怪しまれて面倒なことになりかねない――とね」
「密談の、名目……」
ノエルの深緑の瞳に、少しずつ理解の光が宿り始めた。
「その通りです。それにね、ノエル様。政治家や騎士たちが表舞台で剣や言葉を戦わせている裏で、常に新鮮で、かつ致命的な情報を握っているのは誰だと思います? ……それは、社交界でのお喋りを通してネットワークを張り巡らせている、奥様方(王妃たち)なのですよ」
ノエルは顔を上げ、確信に満ちた表情で文乃を見つめた。
「……なるほど。僕たちが今一番知らなければならないのは、ヴァルデン側が『なぜ、今』ここまで無理な要求を突きつけてきているのか、その真の動機だ。それに、兄上や大臣たちには、疲れた僕を慰めるためのささやかな集まりだと言い訳すればいい。彼らはきっと、僕が現実逃避を始めたと笑って見逃してくれるでしょう。……それこそが、僕たちの最大の好機だ」
その言葉に、文乃は満足げに目を細めた。
「その意気です、ノエル様。……ふふ、軍師の卵としては百点満点の回答ですね」
月明かりの下、二人の「戦い」は、華やかな刺繍のテーブルクロスと、香り高い茶葉の選定から始まった。
***
抜けるような青空の下、リュクサール王宮の私庭は、色とりどりのバラと柔らかな陽光に包まれていた。
白く塗り上げられた優美なガゼボを囲むように、最高級のレースが施されたテーブルクロスが風に踊る。そこに並ぶのは、ノエルが丹精込めて手入れをした、宝石のように瑞々しい花々だ。
「まあ……なんて素晴らしい香りかしら。ノエル殿下、この紅茶、いつものものとはまるで別物ですわ」
招かれた周辺国の王妃の一人が、薄い白磁のカップから立ち上る湯気に目を細めた。卓上を彩るのは、文乃が厨房の料理長を「これは平和のための戦いよ!」と半ば脅して作らせた、本格的な英国式アフタヌーンティーだった。
豪奢な装飾が施された銀の三段スタンド。一番下には、丁寧に耳を切り落とされ、きゅうりやサーモンを挟んだ一口大のサンドイッチ。中段には、焼きたての香ばしい匂いを放つ、狼の口のような割れ目の入ったスコーン。そして最上段には、色鮮やかなフルーツやクリームをあしらった宝石のようなペストリーが誇らしげに並んでいる。
「この『すこーん』というお菓子、添えられた濃厚なクリームとの相性が抜群ですわ。こんな贅沢な体験、初めて……!」
「リュクサールに、これほど洗練された文化があったなんて驚きです」
初めて体験する「午後の茶会」という魔法に、王妃たちの頬はバラ色に染まり、警戒心は心地よい甘さの中に溶けていった。饒舌になった彼女たちの会話は、やがて王宮の深い裏側へと滑り出していく。
「うちの夫ときたら、毎日軍備の話ばかりで退屈ですのよ。ノエル殿下のように、お花や芸術を慈しむ心が少しでもあればよろしいのに」
「本当ですわ。レオネル殿下の精悍なお姿も目の保養になりますけれど、ノエル殿下のその憂いを帯びた儚げな美しさは、こう……母性本能をくすぐられますわね」
王妃たちの熱っぽい視線を、ノエルは淑やかな微笑みで受け流す。その傍らで給仕に扮した文乃が、眼鏡の奥で鋭く情報を精査していた。
やがて、話は周辺諸国の「取引」という核心へと触れた。
「……そういえば、隣のヴァルデン。あそこの貿易商たちが、最近やけに必死になって穀物を買い漁っているという噂を聞きましてよ」
「あら、やはり? うちの国にも打診がありましたわ。鉄資源を二倍出すから、備蓄の麦を回してくれと。もしかしてあちら……公にはしていませんけれど、相当な食糧難に陥っているのではないかしら?」
ピクリ、とノエルの指先が動いた。ヴァルデンが強硬な態度で鉱山を求めてきた真の理由。それは侵略欲ではなく、民を飢えから救うための、なりふり構わぬ絶望の叫びだったのだ。
ノエルは、庭園の隅で控えていた文乃と視線を交わした。文乃は小さく頷き、その瞳に「勝機」の光を宿す。
その確信に満ちた視線の交錯を、冷ややかな、毒を含んだ視線が射抜いた。
庭園へと続く回廊の影。豪華な軍服の胸元を揺らし、軍部大臣ボドワンが数人の取り巻きを連れて立ち止まっていた。華やかな笑い声が響くガゼボを、ボドワンは汚らわしいものでも見るかのように細めた眼で見下ろす。
「……見ろ。我が国の第二王子殿下のご公務を」
ボドワンが低く吐き捨てると、背後の部下たちが卑屈な薄笑いを漏らした。
「ほう、これは。国境には暗雲が立ち込め、我ら軍部が寝る間も惜しんで戦支度に奔走しているというのに。殿下は女子供に囲まれて、お菓子のお味見ですか」
「全くだ。レオネル殿下が前線で剣を振るう覚悟を固めておられるというのに、あの方は現実から目を逸らし、花と茶に逃げ込んだらしい」
ボドワンは手に持った扇で、ノエルが王妃に焼き菓子を勧める様子を指し示した。その顔には、隠そうともしない侮蔑の色が張り付いている。
「いい見せ物だ。あれでいい、あれこそが私の望む『無能な王子』の姿よ。あのように呑気に茶を啜り、王族としての牙を失っていればこそ、レオネル殿下の覇道が際立つ。……フン、国の一大事に砂遊びに興じるとは。やはり、あいつは王家の恥、これから始まる乱世には無用の長物よな」
ボドワンは満足げに鼻を鳴らし、踵を返した。
「せいぜい、今夜の夢の中でも花の香りを嗅いでいるがいい。明日には、鉄と血の臭いがお前の温室を焼き払うことになるのだからな」
嘲笑を響かせながら去っていく男たちの背中。 ノエルはそれに気づかぬふりをして、手元のティーポットを傾けた。しかし、その瞳の奥には、ボドワンたちが決して想像だにしない「戦いの炎」が、静かに、けれど激しく灯り始めていた。
西の空がオレンジ色から深い紫へと溶け始めていた。お茶会を終えた王妃たちの馬車が、一台、また一台と車輪の音を響かせてリュクサール城の門をくぐり抜けていく。
「本日は素晴らしいひとときをありがとうございました、ノエル殿下。あんなに美味しいお菓子とお話、一生の思い出になりそうですわ」
「ええ、ぜひまた招待してくださいませね」
名残惜しそうに手を振る王妃たち一人ひとりに対し、文乃は丁寧に頭を下げながら、何やら美しく装丁された小さな小冊子を手渡していく。
「皆様、本日の感謝の印にささやかなお土産をご用意いたしました。……ですが、これだけはお約束ください。中身は非常に秘匿性の高い情報が含まれております。決して、殿方や他の方々の目には触れぬよう、皆様方だけの秘密にしてくださいませ」
文乃が眼鏡の奥で悪戯っぽく、けれど有無を言わせぬ鋭さで囁くと、王妃たちは「まあ、秘密ですのね」「淑女の嗜みとして、硬く守らせていただきますわ」と、期待に胸を膨らませて馬車の中へと消えていった。
最後の馬車が見えなくなったところで、ノエルはたまらず文乃の袖を引いた。
「文乃さん、あの中身はいったい何なんですか? 王妃様たちにあんなに念を押して……まさか、何か呪いの魔導書とかじゃないですよね?」
「失礼ね。あれは呪いよりも強力で、どんな剣よりも鋭い、今回の作戦の『秘密兵器』ですよ」
文乃はノエルの問いを軽やかにはぐらかすと、夕闇に沈み始めた城内へと早足で戻っていく。
「さあ、急ぎましょう、ノエル様!ボドワン大臣たちが勝利の酒を準備し終える前に、私たちは歴史の裏道を駆け抜けなきゃいけないんだから!」
戸惑いながらも、その背中を追うノエルの足取りは、いつの間にか会議の後の絶望感など微塵も感じさせないほどに軽くなっていた。
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