第十九話 光の覇王、影の月
数日後――。
カイルという嵐が過ぎ去っても、文乃の生活は凪いだ海のように変わらなかった。静寂を守るべき王立図書館に、やけに重く、深い溜息が落ちた。豪奢な彫刻が施されたマホガニーの長机。その端で、第一王子レオネルは頬杖をつき、眉間に深い渓谷のような皺を刻んで天井を見上げている。
「……はぁ」
まただ。これで三度目。向かいの席で古文書の解読に没頭していた文乃は、ピクリと眉を跳ねさせ、ペンの動きを止めた。ページの上に漂う神聖な静寂をぶち壊すその音は、彼女の堪忍袋の緒をあっさりと切り裂いた。
バンッ――!
文乃は机を叩き、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。背中まで届く長いお下げ髪が、怒りの波動で跳ね上がる。
「ええい!鬱陶しい!何度ため息つけば気が済むんですか?こっちは数百年前の税収記録と格闘中なんです!仕事の邪魔だから出てってください!」
その剣幕にも、レオネルは相変わらず視線を宙に泳がせ、覇気のない瞳で文乃を見返した。
「……文乃か。すまない、無意識だった」
「無意識で周囲の士気を下げるのは王族としてあるまじき欠点ですよ。一体何が気に入らないんですか?」
文乃が黒縁眼鏡の奥から射るような視線を向けると、ようやくレオネルは観念したように口を開いた。
「……弟のことだ。ノエル・リュクサール。あいつのことで、頭がいっぱいでな……」
その名を口にした瞬間、図書館の空気が少しだけ張りつめた。レオネルのサファイアの瞳に、王子の仮面ではない、兄としての苦悩が滲む。
「王都に急報が届いた。――隣国ヴァルデンが、国境沿いの『竜骨鉱山』の割譲を要求してきた」
「鉱山……? つまり、領土問題ってことですか?」
「そうだ。拒否すれば武力行使も辞さない構えだ。明日、第二王子――弟のノエルと共にヴァルデンの使節と交渉の席につくことになったのだが……」
レオネルは拳を握りしめ、悔しげに吐き捨てた。
「あいつは……ノエルは、優しすぎるんだ。荒事には向かない」
窓から差し込む鈍い光が、レオネルの黄金の髪に影を落としていた。その憂いを帯びた横顔は、いつもの不遜な王子のものではなく、不安に揺れる一人の兄の顔だった。
「その、ノエル様というのは、一体どのような方なのですか?」
文乃は魔法の万年筆を置き、眼鏡を指先で直しながら尋ねた。レオネルの口から語られる「優しさ」が、この世界でどのような形をしているのか、司書としての好奇心がわずかに疼いたのだ。
「……あいつがまだ、背丈も今の半分ほどだった頃の話だ」
レオネルは遠い目をして、記憶のページをめくり始めた。
「俺は当時から、ガルドを相手に日が暮れるまで剣を振るっていた。王族たるもの、獅子のごとく強くあるべし――それが当たり前の教育だったからな。だが、ノエルは違った。あいつは生まれつき体が弱く、稽古の輪から外されることが多かったんだ」
レオネルの視線が、中庭の隅に向けられる。そこにはかつて、一人の老庭師が手入れをしていた花壇があった。
「あいつは剣を握る代わりに、いつも土にまみれていたよ。老庭師の隣にしゃがみ込んで、『どうしてこの花は夜に閉じるの?』とか、『この木が水を欲しがっているのはどうすればわかるの?』なんて、植物のことばかり質問攻めにしていた。俺が一度、見かねて『そんなことより剣を握れ、俺が教えてやる』と誘ったことがあったんだが……」
レオネルは自嘲気味に口角を上げた。その時のノエルの反応が、今も胸に刺さっているようだった。
「ノエルは透き通った瞳で俺を見上げて、こう言ったんだ。『兄上、次期国王はあなたの役目です。あなたが強くあれば、国は守られる。だから僕が剣を握る必要はない。……それに、僕は兄上みたいに強くなれない』と。あいつは、寂しそうに笑って、また泥だらけの手で苗を植え始めたよ」
レオネルの話を聞き終えた文乃は、無意識に手元の白紙のページをなぞっていた。太陽のように眩しく、力で道を切り拓くレオネル。そして、その影でひっそりと土の声を聴き、自らの弱さを静かに受け入れていた弟、ノエル。
(……光と影。鏡合わせのような兄弟ね)
あまりにも対照的なその少年の感性に、文乃は僅かに興味を抱いた。ただの「気弱な王子」ではない。自らの役割を兄に託し、誰も見向きもしない足元の生命に心を寄せるその在り方は、果たして本当に「弱さ」なのだろうか。
「真逆、ですね。でも、そのノエル様という方は……もしかすると、私たちには見えていないものを、土の下に見ていらっしゃるのかもしれませんよ」
文乃のその言葉に、レオネルは答えなかった。ただ、図書館に差し込む光がさらに斜度を増し、王子の背後に長い影を作っていた。
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