第十四話 親友は嵐、そして最悪の「恋の病」
執務机の上に積み上げられた書類の塔を前に、私は重苦しい吐息を噛み殺した。老執事アルノルトが、抑揚のない声で読み上げる本日の予定は、聞いているだけで精神が摩耗していくようだ。
「――以上が本日の公務予定でございます、殿下」
「……ああ、わかった」
私は金装飾の施された重いペンを持ち直し、次の書類へと視線を落とした。王族としての責務。逃げ場のない檻。そんな言葉が脳裏をよぎりかけた、その時だ。
バタンッ――!
重厚なオーク材の扉が悲鳴を上げるような勢いで開かれ、息を切らした若い使用人が転がり込んできた。
「し、失礼いたしますっ!」
「慌てない。報告は呼吸を整えてからにしなさい」
アルノルトが低く叱責する。その氷点下の視線に、使用人は身を縮こまらせながらも声を張り上げた。
「カ、カイル様が……! ただいま城門に到着され、殿下に面会を求めて――」
「事前連絡もなしにですか?」
アルノルトの片眉がピクリと跳ね上がる。呆れを通り越して頭痛を堪えるような表情だ。私は、ペンを置いて苦笑した。
「いつものことだ。あいつに礼儀や常識を期待しても無駄さ」
私が言い終わるより早く、ノックの音すらなく扉が再び勢いよく開かれた。
「レオネルー! 俺だ! 親友のカイルだぞ!」
夏の日差しそのものが、薄暗い執務室へ雪崩れ込んできたようだった。風のように踏み込んできた長身の青年。交易の旅で培われた健康的な小麦色の肌が、窓からの陽光を弾いて輝いている。潮風に遊ばせたような金茶色の髪が揺れるたび、耳元では大粒のルビーが情熱的な赤を閃かせていた。リュクサール随一の商家の跡取り、カイル・グランバート。私の親友であり、最も厄介な嵐だ。
「……ノックくらいしろと言っているだろう、カイル」
アルノルトの眉間に刻まれた渓谷のような皺などお構いなしに、カイルは私の机の前まで大股で歩み寄ると、大仰に天を仰いで胸を鷲掴みにした。
「ああ、レオネル……俺は、重い病にかかったようだ……」
「病気だと?」
私は思わず椅子から腰を浮かせた。この強靭な友が病に倒れるなど、天変地異の前触れではないか。
「この胸が、熱く、苦しくて……夜も眠れない……食事が喉を通らない……」
「それは一体、何の病だ」
「――恋の病だ」
琥珀色の瞳を潤ませ、真剣そのものの表情で言い切るカイル。私はこめかみを押さえ、魂が抜けるほど盛大にため息をつきながら椅子へ沈み込んだ。
「……お前というやつは。またか」
呆れる私をよそに、カイルは白い歯を見せてニカっと笑う。金もあれば顔もいい。すでに何人もの女性と浮き名を流している男が、今さら何を言うのか。だが、カイルの瞳に宿る光は、いつもの軽薄なそれとは違っていた。獲物を見つけた鷹のような、それでいて純粋な少年のような輝き。
「で、その“運命の人”とやらはどんな女性だ?」
「――赤髪の少女だ」
ペンの先がピタリと止まった。心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「……赤髪? まさか、俺の誕生パーティーで踊っていたあの子か?」
「そうだ! 燃えるような髪に、太陽を映したような瞳……あれこそ俺が探し求めていた運命の女神だ!」
カイルはうっとりと天井を見上げ、見えない幻影を抱きしめるような仕草をした。私は言葉を失った。 あの日、私の腕の中で踊った少女。一夜限りの魔法で姿を変えた、あの文系眼鏡の図書館司書。カイルが恋した相手が、まさか「文乃」だとは。
「……待て。お前ほどの女好きが、その場にいてなぜ声をかけなかった?」
私の問いに、カイルは小麦色の頬を僅かに赤らめ、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……かけられなかったんだ。あまりに高貴で、美しくて……俺ごときが軽々しく触れてはいけない『聖域』に見えた」
聖域、か。私は胸の奥で、小さく黒い感情が渦巻くのを感じた。カイルは知らない。あの「聖域」の正体が、いつも図書館で仏頂面をして本を読んでいる、地味で愛想のない少女であることを。そして、その素顔を知っているのが、この私だけであることを。優越感とも、焦燥感ともつかない複雑な感情が喉元までせり上がる。だが、それを飲み込み、私はあえて平静を装った。
「……だが、後悔はもう終わりだ! 今度こそ俺は、彼女を見つけ出して想いを伝える! いいよな! レオネル!」
カイルの高らかな宣言が、私の胸をざらりと撫でた。
「……待て。紹介しろと言われても、俺だって彼女の素性は知らないんだ」
嘘ではない。彼女が「白石文乃」であることは知っているが、「赤髪の王女」としての彼女は、あの一夜限りの魔法が生んだ幻だ。だが、カイルは諦めるどころか、待ってましたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべた。
「だろうな! あんな高貴なレディが簡単に正体を明かすはずがない。だからこそ、レオネル。頼みがある。お前の城にいるっていう、例の『賢き司書』に会わせてくれ」
「……文乃のことか?」
嫌な予感がして、声が低くなる。なぜここで彼女の名が出る。
「ああ。俺の部下たちが噂してたぜ。最近、この国を襲った魔女事件の原因『黒穂病』の解決策を古い文献から見つけ出し、未曾有の危機から国を救った凄腕の司書がいるってな。そんな知恵者なら、あの日パーティーに招かれた賓客の記録や、髪の色にまつわる伝承から、彼女に繋がる糸口を見つけてくれるかもしれない」
カイルの目は真剣そのものだった彼は女性と見ると老婆だろうが、お幼い少女だろうがところ構わず声をかけるやつだ。本音を言えば会わせたくない。地味な眼鏡をかけ、本のことになると周囲が見えなくなるあの偏屈で愛おしい少女がカイルのになびくをとは到底思えないが、万が一という言葉がある。
「……彼女は忙しい。古い税収記録の整理で手一杯だと聞いている」
「頼むよ、親友! この通りだ! 俺の人生、この恋を逃したら一生後悔する!」
カイルが大仰に頭を下げる。アルノルトが隣で頭が痛いと言わんばかりにこめかみに指を当てる。ここで断れば、執拗なカイルのことだ、自分で勝手に図書館を嗅ぎまわるだろう。そうなれば、余計に事態は混乱する。
……ならば、私の管理下で、彼女に「そんな人物は心当たりがない」と一蹴してもらうのが一番安全か。
「……分かった。案内しよう。だが、彼女は気難しいぞ。お前のような軟派な男は、挨拶も済まぬうちに追い出されるのが関の山だ」
私は、自分に言い聞かせるようにそう吐き捨てた。ドレスを脱ぎ、赤髪を黒いお下げ髪に戻した彼女を見ても、カイルが気づくだろうか?あんなに眩しい幻を追っている男の目に、地味な司書の少女が同一人物として映るなら、彼の想いも本物なのかもしれない。
そう思いながらながら、私は重い足取りでカイルを伴い、図書館へと向かった。
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