第一章 渡良瀬純とそのつがい 八
「純」
と低声で呼ばれた瞬間、過去をたどっていた意識が現実へと引き戻された。
「あ……? な、なに?」
純は声をうわずらせた。
「まさか月世に失礼なことをしでかしたのでは」という意識が胸のうちを騒がせたがゆえに、そうせざるを得なかったのである。
ただし、それは杞憂であったようだ。
月世は平然としていた。いつもの顔で、いつもの声で、
「レガリアを見ていると、おまえとの出逢いを思い出すな……」
と言っては、彼方に浮かぶ月に似た球体を見上げていたのである。
純は彼の視線を目でなぞった。
神苑の地に絶大な魔力を与えているかの物体は、乳白色のきらめきを赤く染まりつつある空に振りまきながら、ゆるやかな速度で自転していた。
それはさながら、月のようであった。
人々の織りなす営みを長きにわたって見守ってきた天体。確かにそこにあるのに決して手の届かぬ位置にある存在。
「レガリア」という謎に包まれた球体は、純の心にそのような印象を与えつづけていた。
憧れと、その感情に近い羨望と。
レガリアは、一個の独立した生き物、意志は持たぬが心は持っている生物のようにも見えた。
だからこそ、純は一日に一度は空を見上げるのだ。恋情にも似た情愛をその胸のうちに秘め隠しながら、はるかな空で旋回するレガリアに祈りを捧げていたのである。「おれが女の子になったとしても、月世との関係が変わりませんように」と──。
無邪気に遊ぶ子どもたちと過去の自分の姿を、重ねてみる。
純にもあんな時代があった。両親に連れられて、遊具類のいっぱいある近所の公園で楽しく遊んだ時代があった。
だけど、月世に出逢った冬の夜、人生が一変した。つがい同士が初めて肌を触れ合わせたときだけに起こる感応現象を体験したために、月世の婚約者として──将来の妻として、天宮の屋敷に迎えられることとなったのだ。
つがい。
それは、特別な縁で結ばれた完全男性体と絶対女性体のことを指す。つがいの片割れたる完全男性体が、パートナーの体液を体内に吸収すると、とてつもない魔力を得ることができるそうだ。
しかし、世の中にいる完全男性体、あるいは絶対女性体が全員、つがいに巡り逢えるかというと、そうではない。むしろ、その確率はほとんど無に等しい。
だからこそ、「つがい」という言葉にはたびたび「運命の」というロマンチックな接頭辞が付くのである。「神様に選ばれた、強い絆で結ばれた二人」という意味が、語句の裏側に込められているのだ……。
純はレガリアから目を離し、公園の向こうにひっそりと佇む二階建ての綺麗な社屋を見た。ぴかぴかの白壁にツルバラを絡ませたその建物の窓には、「魔術師派遣は当社まで!」という張り紙が大々的に貼られていた。
「卒業したら、おれも働きに出ようかな……」
すると横から、
「駄目だ」
という、鋭い返しが飛んできた。月世の声だった。
「おまえはそのうち、女性になってしまうんだ。それも不定期に発情期を迎える女性にな……。だから、外に働きに出るのだけはやめてくれ」
「わかってるよ」純は言った。
「ちょっと言ってみただけだよ。なにも本気で口にしたわけじゃないんだから、そんなに怖い顔をしないでくれよ」
「だったらよいのだが……」
純は知らず、はあ、とため息をついた。
六歳の頃に実家を出て天宮の家に入ったが、その点に関しては不満を抱えていなかった。前にも述べたように、「育ててくれてありがとう」という感謝の念が、胸の奥に常にあったから。
しかし、──しかし、だ。
なに不自由なく育てられた身分ではあるけれど、大事に養育されてきた身分でもあるけれど、家の者からは、「将来働きに出ること」を固く禁じられている。それが唯一の不満点であった。
けれども、従わざるを得ないわけが純にはあるのだった。
理由は、いましがた月世が話したとおりだ。
性転換を遂げた絶対女性体は、いつどこで発情するかわからない。もちろん、抑制剤と減少剤は持ち歩いているだろうが、ヒートを迎えたそのときに、高まる性欲を完全に抑えきれるか保証はない。
月世やその他の天宮家の人々は、そのことを強く心配しているのだ。
だから、純は反発できずにいた。いままで大切に育ててくれた恩を仇で返すような真似だけは、絶対にしたくなかったから、彼らの言葉に唯々諾々と従っていた。
純の置かれた境遇に同情する友人ならば、ちらほらいた。なかには、「労働する自由を制限するなんて!」と憤る者もいた。「純、やっぱり実家に戻れよ」と忠告する者も少なからず存在した。
だけど、そのたびに、純は天宮家の人々をかばい立てた。
「恩を感じているから」という理由だけではない。
月世たちは純粋に純の身を心配してくれている、気遣ってくれている──その気持ちを汲み取っているからこそ、彼らをかばうのだった。
【続く】
【裏話】
「感応現象」という造語、私は結構気に入っています。




