第一章 渡良瀬純とそのつがい 六
怖かった。
視界を遮る濃い霧も、高所から聞こえてくるけものめいた吠え声も、闇に包まれた夜の山も怖くて怖くてたまらなかった。
人家はおろか、明かりひとつない暗闇に置き去りにされ、純は心細さを覚えた。刻々と時が経つにつれて、空腹感が増していくのを感じた。
「おかしをもってくればよかった……」
しかし、この場に食べられそうなものはなかった。食べられるものとそうでないものを判別する力も、当時の純にはほとんどなかった。
純は歩いた。舗装すらされておらぬ傾斜のついた細道を、とぼとぼと歩いた。下を向いて柿の実を探したが、ひとつも転がっていなかった。
いよいよ深まる闇の中、純はさらに歩いた。歩いて、歩いて、歩きとおして──、そしてとうとう疲れ果てて、太い樹木の根元に座り込んだ。土の温度の冷たさに少しばかり辟易したが、立ち上がるだけの体力も気力もほとんど枯渇していた。
「たすけて……」
純は叫んだ。「だれかたすけて!」
しかし、応じる声はなかった。助けだって来なかった。
けものたちの騒ぐ声だけが、無情にも闇に響いた。
純は泣いた。喉を幾度も詰まらせて、ひとりで泣いた。けれど、やはり、助けは来ない。
「ぼく、しんじゃうのかなあ……」
生まれて初めて察知した死の予感に翻弄されかけた、そのときだった。
満月が、レガリアが、鏡のように冴え冴えと光った──ような気がした。
「おまえが渡良瀬純か」
木々の隙間を縫うように、奇妙な衣服を着た長身の男が現れた。のちにそれは「白袴」という着物の一種であると教えられたのだが、さしあたってここでは措く。
気配を悟らせることなく登場した男を見て、純は口をぽかんと開けた。
「おにいちゃんはだれなの……?」
そう尋ねるのがやっとだった。
「俺か?」
男が自分を指さして言った。「俺は天宮月世という者だ。天祖とその一族を守護する護国六家の筆頭格たる天宮家の次男坊だよ」
「……ふうん。そうなんだ」
さきほどまで滝のように流れ出ていた涙が、一気に止まった。男の優しげな声を聴いて、なんだか安心してしまったのである。
「つきよさんは、どうしてぼくのいるところがわかったの?」
すると、彼はわずかに相を歪めた。ただし、その表情の中に非難の色は微塵も混じっていなかった。
「魔術を使って、おまえのいる位置を割り出したんだ」
そして彼は、淀みなく続きを述べた。
「ふもとの町にある親戚の家に滞在していたところ、町内放送で『子どもが行方不明になっている』という知らせを聞いたんだ。だから急いで術を使ったんだが……、」
月世はそれっきり黙り込んでしまった。
しかし、純には彼が飲み込んだ言葉がなんとなくわかった。
(このひとはきっと、「みつかってよかった」といいたがっているんだ。だって、そういうかおをしてるんだもの)
差し出されたハンカチで涙を拭きながら、純は、「ぼくのかんがえはまちがってないとおもう」と胸のうちで呟いた。
「ねえ、ひとつしつもんしてもいい?」
「なんだ」
「まほうがつかえるってことは、おにいちゃん、もしかしてあるふぁなの?」
「ああ」
月世が間髪入れずに返事をする。
純は、そんな彼の立ち姿をまじまじと見つめた。月とレガリアをはるか遠くに従えるようにして立つその男性の佇まいは、おとぎ話に出てくる生き神様のように気高く、尊く、美しかった。ただひたすらに美しかった。
完全男性体の特質は、その美貌の他にもう一点あった。
なんと、彼らは──、彼らは生まれながらにして魔術の才に長けているのだ。
【続く】
【裏話】
月世がなぜこのとき白袴を着ていたのか、その理由は私にもわかりません。




