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第一章 渡良瀬純とそのつがい 四

帰り道、純は大通りの裏手にある足湯に寄った。車の排気音がかすかに響く公園の敷地内で、月世に買ってもらった豚まんをほおばりながら、空の先に浮かぶ白い球体を眺めていたのである。

ここ希ヶ丘記念公園のぞみがおかきねんこうえん遊具類ゆうぐるいが充実している。だからなのか、毎日のように子どもたちが来て、大声で騒いで遊んでいた。暑い日も寒い日も彼らは園内に訪れ、楽しそうな顔をして一心不乱にブランコを漕いだり、滑り台に並んだり、鬼ごっこをしたり、ドッジボールをしたりして戯れていたのである。

そのすぐ傍には母親、もしくは父親らしき大人たちの姿があった。彼ら彼女らは親しげに談笑を交える一方、夢中で遊ぶ子どもらにしっかりと目を向け、見守っていた。

この日は珍しいことに、足湯には純と月世の両人りょうにんしかいなかった。普段は町の住民や市外県外からの観光客がいるのだが、本日に限っていえば、二人の他には誰もいなかった。

枯れ葉を落とした桜の木々に囲まれたこの公園は、至って静かで平和だった。住人の憩いの場として機能しているこの場所は、今日も今日とて穏やかな時を来る者に提供していたのである。

純は、あったかい豚まんを子リスのようにもぐもぐ食べながら、空に浮かぶ球体を見つめた。それを見ていると、不思議と騒ぐ心が静まるのだ──だから、謎めいた白い球体ことレガリアを仰ぐのが癖になっていた。

事実、月よりもまるくなめらかな白色はくしょくの球を双の瞳に収めていると、先刻感じた憂いが若干薄らぐのを感じた。

おれが女になることで、月世との関係性が変わっちまったらどうしよう。本物のきょうだいみたいに親密ないまの関係が、崩れてしまったらどうしよう。

そういった心配事が少しだけ消滅するのである。彼方の空に浮かぶレガリアを眺めていると……。

「レガリアか」

純が豚まんを食べ終えたのを見計らったかのように、月世が一言呟いた。

「おまえはよくあれを眺めているな。──好きなのか?」

「さあ。おれにもよくわかんねえよ。ただ、」

月世が視線で続きを訊ねてくる。

車両から漏れ出しているであろう排気ガスのにおいは、この場所までは届かない。

「ただ、あの球を見てると、なんとなく心が穏やかになるんだ。だから困ったときとか、しんどいときとか、辛くなったときは、よくあいつを見ている」

「辛い思いをしているのか?」

月世の声と表情に、強烈な切迫感が混じる。

「俺はおまえに辛い思いをさせているのだろうか」

まるで自分自身の在り方そのものを責めるような響きだった。

「いや、違うよ。おれはちっとも辛くない。今日はただ、あれをぼんやり眺めていただけだし」

しかし、月世はなおも顔を曇らせて、

「……すまん」

と言った。頭まで深く下げてきた。

「つがいだったからといって、まだ六歳だったおまえを婚約者に仕立て上げたのは、他ならぬ俺だ。おまえを天宮家に迎えたのも、俺の望みからなされたことだ。俺のわがままが、おまえの人生を大きく狂わせてしまったんだ……」

「大丈夫だって。気にすんなよ」

純は胸の前に右手を出して、それを小さくひらつかせた。

「おまえの婚約者になったことで、親元を離れざるを得なくなったのはほんとのことだ。普通の絶対女性体オメガとして生きるはずの人生が変わっちまったのも、ほんとのことだ。

だけど、おれはおまえの家に迎えられて辛い思いをしたことなど、一度もない。むしろ『大事に育ててくれてありがとう』って、いつも感謝しているよ。実際、おれはかなり恵まれた毎日を送っているからな」

「そうか」

長口舌ちょうこうぜつが功を奏したのだろう。ようやく、月世の顔に明るみが戻った。

純はいま一度、

「辛い思いなんてしてない」

と繰り返した。月世の憂慮を完全に拭い去るための振る舞いであった。

実をいうと、彼と婚約した際、陰口を叩かれたり意地悪をされたりしたことならあるのだ。月世がいないときに何回か、

「おまえはあの方にふさわしくない」

「庶民はおとなしく実家に帰れ」

と、厳しい口調で言われた。すべて、月世の親類縁者から言われた言葉だった。

そのたびに、わずか六歳だった純は深く悲しんだが、心ない大人たちから浴びせられた赤口毒舌せきこうどくぜつの数々は胸にしまって、平静を装いつづけた。月世をはじめとする家の者たちにも、実家にいた両親にも、告げ口はしなかった。

それは幼い純のうちにあった意地であり、プライドであり、闘いへの強い意志だった。「男たるもの、簡単に誰かに泣きついてはいけない。すがりついてはいけない」という古風な価値観が、「渡良瀬純」という一個人の精神を形成していたのである。

「ところで、純よ」

「なに?」と、純は視線で問いを投げかけた。

「俺や家の者との約束……。覚えているか?」

「ああ、それか。もちろん、しっかり頭に叩き込んでいるよ。『屋敷の離れには近づいちゃいけない』ってやつだろ?」

「そうだ」

月世が静かに微笑んだ。いつになく、慈愛と慈悲に満ちた表情である。

「覚えているさ、ちゃんと」

子どもたちの楽しそうな騒ぎ声が響く中、二人は黙り込んだ。

晩秋ならではの強い日射しは、どこまでも淡く輝いている。

「月世」

「なんだ」

「レガリアって、お月様に似ているだろ。だからあれを見ていると、おまえとの出逢いを思い出すんだ」

「ああ、なるほど」

月世が空を仰ぐ。

きっと、彼の目にもゆるやかに自転する無機的な球体が映っていることだろう。

「確かに月に似ているな。それも、あの日見た満月の形に似ている」


そうして二人は口を閉ざした。

雲のない空の上では、レガリアがくるくると回りつづけている。


【続く】

【裏話】

月世の星座は乙女座です。

純は……、たぶん、天秤座か蠍座だろうなあ。

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