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第三章 悪意 十

「ごめん、純くん。ちょっと居間に来てくれるかな」

「居間に……?」

きょとんとした面持おももちで純がそう訊ねると、

「うん、そう。すぐにとは言わないけど、なるべく早く来てほしいんだ。大事な話があるから」

いつものように爽やかな微笑を口許に浮かべ、千晴が返事を戻してきた。

彼は笑っていた。穏やかに、優しげに。

けれど、純は彼の瞳の奥に息づく別種べっしゅの感情に気づいた。それは一般に、「焦燥」とか「憂い」と表現されるものだった。

(「凄腕すごうでの魔術師」と評判のハルさんに、あんな顔をさせているものって一体なんなんだろう?)

疑念に突き動かされた純は、

「すぐ行くよ」

と言い、席から立ち上がった。

千晴に続いて廊下に出、後ろ手で扉を閉める。

締まった足裏あしうらをふっくらと押し返す木の感触に、ほう、と息をつく。星来や時田の造った異界でなく、歩き慣れた廊下にいる──ただそれだけのことなのに、なぜだかとても安心したのである。

「行こうか」

「うん」

二人は連れ立って、月光の射すほの暗い廊下を移動した。

ひっそりと静まり返った中庭は風のそよぎすら受けず、死んだように沈黙している。池で飼っている錦鯉にしきごいが時折、ちゃぽんと水音を立てるが、いま聞こえる音声といえばその他にはほとんどなかった。

ぎしりぎしりときしむ床板ゆかいた反響音はんきょうおんが、薄闇うすやみに沈む廊下にわびしい音色を添える。

黙って歩きながら、純は隣を歩く千晴の顔をちらりと見上げた。

(ハルさんの言う『大事な話』ってなんなのかな……)

しかし、思案しあんを巡らせたところでどうにもならない。いくら自問しようが、答えはやぶの中だ。

だから、純は浮かんだ考えを早々《はやばや》と打ち切って、千晴の隣を静かに歩いた。

照明に照らされた空間は、清潔な空気に満ちていた。寒さもさほど感じない。きっと、千晴か月世が気温を調整する魔法をかけているのだろう。

「あの……」

「なあに?」

千晴が訊ね返してくる。

「居間には月世もいるの?」

「もちろんだよ」

そして彼はわずかに苦笑すると、

「君と二人きりになったりしたら、月世が嫉妬で荒れるからね。そういう怖いところがあるんだよ、あの子には」

と言った。

驚きの念が純の身を矢のように貫いた。

「えっ、月世が……、月世が嫉妬するなんてこと、あるの?」

「あるよ。大ありだよ」

千晴がこくりと深くうなずいた。

「昔からあの子は僕に対抗意識を持っていたけれど、いまは別の気持ちに支配されているみたいなんだ。だって僕、月世くん本人から釘を刺されたんだもの。『純に手を出したら殺す』って」

「は……?」

純はまたしても驚愕した。月世の言動があまりにも意外すぎて、口すらきけなくなってしまう。

浜辺に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと唇を開閉したところ、千晴が、

「あはは」

と、ひとしきり笑い声を上げた。

そうして呆然と突っ立つ純を見下ろすと、彼は、

「つがいの本能から来る感情なのか、あるいは恋心から来る感情なのか、僕にはわからないけれど、月世くんは君に独占欲を抱いているみたいなんだよね」

と言った。


純は戸惑った。

けれど、筆舌ひつぜつに尽くしがたい喜びも同時に感じた。


【続く】

【裏話】

ルビを振る作業がなかなか大変です。

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