第一章 渡良瀬純とそのつがい 一
「──と、ここで奥村塔子さんの日記は終わっています。おそらく、彼女はこの直後に姿を消したのでしょう。……誠に残念な話ではありますが……」
担任教師の渋い声を聴いた純は、そこではっと我に返った。
五時限目が始まってからしばらくの間、かれこれ二分ほど、教室から見える物体を眺めていた。神苑町上空に浮かぶ全長五百メートルほどの巨大な白い球体に、視線を送りつづけていたのである。
「渡良瀬くん。君はさきほどまで、我が町の空にある球体に見とれていましたね? 魔力の源とされる白い球体ことレガリアに──」
しわの目立たぬグレイのスーツを粋に着こなした老教師が、惑う純ににこりと微笑みかけてくる。その口調に咎め立てるような響きは、一切含まれていない。それがせめてもの救いだと、純は感じた。
県立麗門高等学校は、九州は熊本の県北に建つ歴史の古い学校だ。創立してから百年はゆうに経過している。その間、校舎はほとんど修復されておらず、増改築もなされていない。
校内には常時明かりが灯っているものの、教室も廊下もどことなくほの暗いため、怪談めいた噂には事欠かない有様だった。
「先生。レガリアが現れた直後に、この世から女性たちが消え去ったという話は事実なのですか?」
まぼろしのように美しい少年が、手を挙げて、教師に訊ねる。親友の原田親切だ。きっと、うろたえる純を見かねて助け舟を出してくれたのだろう。親切はその名が示す通り、他人に親切にすることを信条にしている奴だから……。
「いい質問ですね」
一年二組の担任教師こと津島調先生が、親切を軽く指さして言った。
「ええ。確かに、レガリアの出現後に世界から女性だけが消失したのです。その理由は数十年が経過したいまでも解明されておりません。そして、のちに大罪厄と呼ばれるようになった一連の女性消失事件のあと、残された男性たちは、ある問題に気づきました」
「『子どもをもうけることができなくなる』という問題ですよね?」
隣の席に座っていたおさげ髪の少女──小林みなほがさらりと口を挟む。
「そうです」
津島先生が短く返答した。それからやや沈んだ声音で、
「当たり前の話ですが、男性だけでは子をなすことができません。例外もありますが、おおかたの男性は女性と交わらないと、子どもを得ることができないのです。
しかし、女性たちは皆、消えてしまった……。だからこそ、残された男性たちは恐慌状態に陥ったのです」
と続ける。
純は姿勢をぐっと正し、
「だけど、残された男たちは、そのあとしばらくしてから『第二性』と呼ばれる新たな性別を得たんですよね?」
と問いかけた。
教室内は、町はずれの美術館のようにしんと静まっている。男女合わせて二十数名ほどが着席しているのに、騒ぎ立てる者がひとりとしていないのだ。
「そうです。渡良瀬くん、君の言う通り、残された男性たちは、生まれてから死ぬまでずっと男性である完全男性体、出生時は男性だけれど成長後は女性にもなりうる雌雄展開体、そして生まれたときは男性でもいずれ必ず女性化する絶対女性体という第二性を獲得したのです」
静寂が澱のように沈み込む。
「ちなみに私は雌雄展開体ですが、もう女性化する可能性はないといえるでしょう。性転換は大体、十代のうちに発生する現象なのでね……」
津島先生の声は、凪いだ海のように穏やかなうねりを帯びている。
「この世にいる九十パーセント以上の男性は、雌雄展開体なんですよね。……俺もそうですけど」
セーラー服を着た黒髪の少女が、声を発した。凛とした、それでいてのびのある美しい声だった。
「ええ、そうですよ。進藤くん」
津島先生が柔和な笑顔で受け答えをする。まっすぐに背筋をのばして佇むその姿を見ていると、普段適当に生きている純ですら、「ちゃんとしなきゃな」という気にさせられる。そして、その感情は、クラスメイトの進藤深雪を見ても湧きのぼってくるのだった。
──進藤は、二週間前まで男性として暮らしていた。野球部のレギュラー部員として甲子園を目指していた。朝も夕も練習に打ち込んでいた。昼休みも外に出て、必死にボールに食らいついていた。それが純の知る「進藤深雪」という人物像だった。
だけど、彼はある日を境に、「彼女」になった。つまり、望まぬ性転換を果たしてしまったのだ。
それから彼、いや、彼女は荒れた。教室に来るなり机に突っ伏し、大声で泣きじゃくり、「なにもかもが嫌だ! 死んでやる!」とわめき立てた。
純や親切、そしてクラスメイトたちが一致団結し、落ち込む進藤を慰めたからよかったものの、もし彼女があのまま自死を決行していたらどうなっていただろうか──いま思い返してみても、恐ろしいと思う。
「渡良瀬くん」
津島先生の表情に、わずかなかげりがさした。
「君は確か、絶対女性体でしたね」
「はい」
純ははきはきと答えた。
「でも先生、おれは一度として自分の体を呪ったことなんてないですよ。三歳児検診で、『遠い未来か近い未来か予測はつかないけれど、君は将来、女性になる。早ければ十二歳頃には性転換してしまうよ』と検査担当の人に言われましたけど、そのために悲観したためしなんて、これっぽっちもありません」
「そうですか」
先生の顔が目に見えてゆるんだ。
「性転換を遂げた男性の中には、みずから死を選んでしまった人もいると聞いています。だからこそ、私は君のことを心配しているのです。君は数少ない絶対女性体ですからね……」
「心配なんてする必要ないですよ」
純はからりと打ち笑った。
と同時に、室内にあたたかな笑声がいくつも生まれる。
「そういえば、純、前々から言ってたもんなあ。『おれが性転換したら、炎のように赤い髪を持った女の子になるだろうな』って」
「『どうせなら巨乳になりたい』とも言ってたよな」
「おまえら、ひとの性癖ばらすなよ! まるでおれが変態みたいじゃんか」
純は快活な笑みを作って、飛んできた言葉の数々に返事を返した。
薄暗い教室の中に、大きな笑い声が充満する。ちょうど窓際付近の席に座る純を中心にして、ぬくもりを含んだ笑い声が広がっていく。まるで波打つ水面のように。果てがわからなくなるほどに、どこまでも。
けれど、純は不安だった。いつか女になるおのが身を思うと、たまらなくやるせない気持ちになった。
純は怯えていた。いずれ必ず女性化するこの体を呪っていないのは本当のことであったのだが、それでも、自身の肉体に対する恐怖心は胸のうちにしっかりとこびりついていたのである。
【続く】
誤字を訂正しました。
申し訳ございませんでした。
【裏話】
津島先生の若い頃の話も書いてみたいと思いました。
あと、調という名前が気に入っています。




