序章 奥村塔子の日記
一九九九年七月七日 晴れ
瞬く星々が閉ざしたカーテンの向こうにちらばっているその日、私は例えようのない不安に襲われていた。私の住む町・神苑町は、事件事故の滅多に起きない町なのに、それでも私はこの日の朝からずっと、落ち着かない気分でいたのだ。
理由なら明白だ──今月こと一九九九年七の月は、かの有名な異国の予言者ノストラダムスによる、「恐怖の大魔王が降臨してくるであろう」という予言がなされた月でもある。魔王の正体が不明であるだけに、この予言は私の心に憂いと恐怖をもたらした。
そう、私は恐れていた。
単調で退屈な日々といえばそれまでだけれど、私は神苑での暮らしをとても気に入っていた。町の至るところにもうけられている足湯に浸かって日頃の疲れを癒やしながら、同じ町に住む友人や、町外からの観光客と談笑するのをとても楽しみにしていた。
神苑は温泉街として栄えている町だ。そして、「天宮」という、全国に名をとどろかせている名家がある町でもある。
私は詳しく知らないが、天宮家は、魔術文化が異様に発達しているこの国の祭祀王こと「天祖」を常時護りつづけているそうだ。だから、九州地方にいながらにして、中央の政財界、官界、教育界、宗教界、法曹界を動かすほどの権力を備えているのである。
なお、外国で魔術文化がさほど栄えていないのは、「神の教えに反するから」というのが主な理由だ。だから、ある意味、日本は異端的な国家ともいえるだろう。
……あらぬ方向に話が飛んでしまったような気がするので、ここでいったん、軌道修正をする。
とにもかくにも、神苑は平和な町だった。名湯に恵まれた自然豊かな土地、満員電車とも渋滞とも無縁な土地、素朴で温かみのある人々が居住している土地、田舎特有のいやらしさ、都会から来た人間を排除しようとするいやらしさとはまるっきり縁のない土地──それが神苑という町だ。
午後九時十四分現在、私は自室にこもって、日記をつけている。小花柄の表紙の日記帳は、私の好きな某文具メーカーから発売されているもので、かれこれ三年ほど愛用しているものだ。
話は変わるのだが、私にはひとつ、おかしな癖があった。日記帳を選ぶとき、商品を企画した人やそれにゴーサインを出した人など、実際に商品化するまでに努力した人たちについてしみじみと考え込んでしまうのだ。どんな人が作っているのか、とても気になってしまうのである。
思えば、物心ついた頃から、私は「作る人」に強い関心を寄せていた。絵でも小説でもゲームでも手芸でもいい。ジャンルはなんでも構わない。とにかく、私には、創作者への憧れが常にあった。
かといって、自分が同等の存在になりたいかというと、実はそうでもなかったりする。創作は多大なる喜びをもたらしてくれるけれど、その分、物凄いエネルギーを奪っていくと理解しているためだ。
だから、私は大学卒業と同時に主婦になった。創作者への憧れは依然として自覚していたものの、実際に彼ら彼女らのように振る舞うことをよしとしなかったのである。
でも、現在の生活に不満はない。
夫とは大学時代に知り合ったのだが、いまだに私のことを大事にしてくれている。「私のほうが年下だから」という理由が若干影響しているのかもしれないけれど、壊れ物でも扱うかのように私に接してくれる。
「塔子ちゃん」と彼が呼びかけてくるたびに、私は少し吹き出しそうになる。子どもでもないのに、「塔子ちゃん」なんて呼ばれると、なんだかくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになるのだ。
別に悪い気はしないからいいんだけどね……。そう呼ばれるのにも、もう慣れたから。
ついでに、私の夫についてもちょっとだけ書いておくとしよう。
愛する夫の名前は全という。フルネームは、奥村全。「全」という名前を書面で見るたびに、「なかなかかっこいい字面じゃないの」と私はひそかに思っているのだが、これは夫本人には内緒にしている。
全さんは、どちらかというと、美形ではない。そもそも「イケメン」なんて軽薄な言葉、彼には似合わないと思うし。
だけど、彼には二つほど、目立った長所があった。
まず、姿勢がすこぶるよいため、実年齢よりもずっと若々しく見える。
それに、声がひどく柔らかで、しかも甘みがある。媚びたような甘さじゃない。聴く人の心を優しく包み込むような、音楽的な響きが底の底にこもっているのだ。
実際、彼の声を耳にした人はこぞって、「いい声だね」「声優さんみたいだね」という感想を漏らす。そのたびに、私は彼の隣で得意になる。
その全さんはというと、いまは自分の部屋にいる。うちは夫婦の自室が別々で、寝るのも別々なのだ。私の母や姉などは、「寝室は同じ部屋にしたほうがいいんじゃないの?」と言ってくるけど、特に不都合はないのでこのままにしている。
と、ここまで書いたときだった。
なにか、強い光が見えた。
カーテンをしっかり閉ざしているのに、その向こうに強烈なきらめきが奔ったのだ!
嫌な予感がする。
カーテンを開いたが最後、私は戻れなくなりそうな気がする。
……どこに?
わからない。
緊張で手汗がにじむ。鼓動がうるさく響き出す。
見てはならない。見たらきっと、私は戻れなくなる。どこに戻れなくなるのかうまく説明できないけれど、窓の外の鮮やかな光が気になって、どうしてもそちらに意識が向いてしまう。
私はここで、万年筆を置く。
そして、カーテンの向こうを覗き見るために、席を立たんとする。
私はこのあと、自分の愚かさを呪うのかもしれない。
それでも、私は願ってしまった。「ペンを置いて、光の正体を確認したい」と確かに願ってしまったのだ。
だって、ほら……、いまもなお、誘うように光が明滅しているんだもの。
まるで私を誘うようにゆらゆらと。
絶えるひまなく、ゆらゆらと──。
【第一章に続く】
連載を開始しました。
このお話は全五章構成になります。
拙い部分が多々ありますが、よろしくお願い致します。
【裏話】
この作品は現在、ラストバトルの直後あたりまで書いています。
全体で九割くらい書き上がっている状態です。
文字数は70000字以上はいくと思います。




