第二章 一年十一組 四
町役場での手続きは、予想以上に早く終わった。平日午前中という時間帯のためか、嘘のように空いていたのである。中にいたのは、ほとんどが、忙しそうに立ち働く職員のみであった。客は純の他に、三、四人くらいしかいなかった。そのうち二人は親子連れだった。
番号札を取り、案内板の表示にしたがって窓口に向かい、職員から指示された通りに書面に文字を記入していった。ペンを走らせる際、少しばかり手が震えた。
朝食の席では「平気だって! ひとりで行けるよ」と強がってみたものの、実際に役場を訪ねたとたん、ただならぬ緊張感に支配されてしまったのである。
「無理もない」といえばそうかもしれない。
だって、ここには大人しかいない。同年代の少年少女など、どこにもいやしない。年長者に対し、ちゃんと敬語を使えているか。失礼な態度を取っていやしないか──それを考えると、緊張はどこまでもいや増していく。
震える右手を必死の思いで制しつつ、文字を書いた。少々字が歪んだけれど、どうにか空欄を埋めることができた。
「はい、これで結構です。本日は窓口にお越しいただき、誠にありがとうございました」
眼鏡をかけた若い女性職員──おそらくは性転換を遂げた雌雄展開体であろう──が冷静な面持ちでそう告げるのを聞いたとき、純はほっと息を吐いた。語るまでもなく、安堵のため息であった。
「あの……。本当に大丈夫なんでしょうか?」
神妙な顔でうかがいを立てたところ、彼女は眼鏡のフレームを指で軽く押し上げつつ、
「ええ。見た限りでは不備はございません」
と言った。
純は職員の言い回しに、ちょっとした感動を覚えた。「不備はございません」というフレーズを生まれて初めて耳にしたものだから、「さすが大人は違うな……」と感じ入ってしまったのである。
先ほども述べたように、月世をはじめ、家の者たちは、純が卒業後に働きに出ることを固く禁じている。
意地が悪いから禁止しているのではない。
純の体質を慮っているからこそ、外での労働を禁じているのだ。
でも、純はひそかに、「一度でいいから働いてみたいよなあ」と思っていた。バイトをしている友人の話にも興味があった。
天宮の家で不自由な思いをしたためしは、一度もない。これからだって、おそらくはそんな毎日が続くのだろう。
だけどやっぱり、一度だけで構わないから、外で働いてみたい。いま目の前に座っている女性職員のように、てきぱきと仕事をこなしてみたいのである……。
「ありがとうございました」
純は静かな声でそう言うと、職員からの返答を待った。
二度ほどまばたきをしたのち、彼女はほんの少し目尻を下げて、
「またのお越しをお待ちしております」
と返事をした。実に気持ちのよい対応であった。
席を立ち、両側に傘立ての置かれた狭いエントランスを抜け、左右にイチョウの木が並び立つプロムナードへと進み出す。綺麗に舗装されたその道は片側二車線からなる広い道路だった。歩道もそれなりに広かった。
役場内同様、道ゆく者は少なかった。通る人も車両も見受けられなかった。
この並木道を抜ければ、神苑町いちばんの大通りに──四ツ峰通りに出る。つい先日、謎めいた美少女・時田奏と遭遇した場所だ。
「あいつに会うのはちょっと嫌かもなあ……」
しかし、純はこのすぐあとに、胸に湧いた心配事が本物と化したことを知る。
時田奏が並木道の向こうから、歩いてやってきたのだ。
【続く】
【裏話】
私は字がめっちゃ下手なうえにすぐ緊張するので、人前で字を書くのが苦手です。
私以上に字が下手な人って見たことがありません。
※2026 4/13 加筆修正しました。




