76話 なんか違う ~諦めるにはまだ早い~
偽金貨の件を、サンドレアムに報告を送ってから三日。
ついに返答がきた。
わたしの計算では、荷を積まない馬車で片道四時間。
報告を読み、調べ、返事を整えて……そう考えれば、このくらいの日数は当然なのだろう。
むしろ、早い方だ。
けれど、それでも胸の奥は少しそわそわしていた。
封蝋を割り、並んだ文字を追ったところで小さく息を呑む。
「偽金貨を溶かして、回収できたのは全体の三割かぁ」
そしてその下には、さらに冷たい一文が並んでいた。
「補填は本来、領都の責務にあらず。必要とあらば、トバルの財政にて賄われたし……ねぇ」
……厳しいなぁ。
確かにこれは、平民同士の取引の問題だ。
貨幣という領主の信用に関わる部分だから、サンドレアムが調べてくれただけ。
本来なら、自己責任で終わる話なのだ。
「七割も……なくなっちゃったんだ」
口にしてみると、その大きさに改めてため息が漏れた。
けれど、隣で報告書を読んでいたアゼレアは、落ち着いた手つきで書類を閉じ、短く言った。
「……何も戻らないよりは、マシだ」
声は静かだったけれど、押し殺した苛立ちがかすかに滲んでる。
わたしはその横顔を見ながら、ただ唇を噛むしかなかった。
それでも、頭の中ではぐるぐると考えが回ってしまう。
三割しか戻らなかった。
残りの七割は、消えたままだ。
「……なんとかしないとね」
ぽつりと口からこぼれる。
アゼレアが、ちらりとこちらを見た。
あの目は、わたしの言葉を咎める感じではない。
ただ、その視線の奥に「さて、どうする?」とでも言いたげな、静かな光が宿っていた。
◇ ◆ ◇
「気持ちはわかるが……何かあるのか」
アゼレアが静かに問いかける。
わたしは机に身を乗り出し、広げられた地図を指でなぞった。
町の西には川が流れていて、比較的近い。
「ここから水を引けないかな? ちょうど平らな土地が広がってるし」
マテオが目を瞬かせる。
「水を……ですか?」
「うん。あのね、お米っていう穀物があるんだよ」
所長の講義を思い出す。
南の大領地――水の都トレメルでは、お米を育てる稲作が一大産業になっている、と。
「田んぼに水を張って育てるんだって。だから、もしここに水を引けたら、きっと稲作ができると思うの」
わたしは両手をぎゅっと握りしめる。
……お米……つまり、ご飯。
炊き立てのご飯を思い出すと、胸がキュンキュン高鳴った。
「やるしかないよ! 一石二鳥だもんっ!」
アゼレアがわずかに目を細める。
「つまり、新しい産業を作り、失われた資金を回収できれば、ということだな?」
「そ、そういうこと!」
……あれ? 一瞬、口元が笑ったような? まさか――わたしが前に「ご飯食べたいっ」て言ったの憶えてる!?
「アゼレア、今……笑ったでしょ?」
「気のせいだ」
さらりと返され、わたしは頬が熱くなるのを感じた。
……完全に見抜かれてる。
アゼレアはわずかに咳払いをして、マテオに視線を向ける。
「マテオ、教えてやれ」
「はっ。代理殿、それが……無理なのです」
マテオが神妙な顔で言葉を継いだ。
「川から水を引こうとするなら、ちょうどその手前に一帯を覆う森があります。その森に生えているのが――セイレナの木、別名『役立たずの木』と呼ばれております」
「役立たず……?」
わたしが首を傾げると、マテオは苦い顔をした。
「木材として利用しようと試みましたが、常に多量の樹液を垂れ流しており、乾くことがないのです。切ろうにも樹液で斧が鈍り、燃やそうとすれば煙が酷い。材としても薪としても、役に立ちません」
ロエナが茶を淹れていた手を止め、困ったように小さく呟く。
「そんな木が、一帯にあったんですね……」
ロエナの言葉に、マテオが頷く。
「歴代のアードも挑みましたが、ことごとく断念いたしました」
わたしは地図を見つめた。
川は近いのに、目の前にそんな厄介な木が生い茂っているだなんて。
「うわぁ……ほんとに邪魔」
漏れ出た本音に、アゼレアがわずかに頷いた。
「回り込んで、水を引くことはできないの?」
わたしの問いかけに、マテオは首を横に振る。
「それも検討されました。しかし、回り込むとなれば、山道を切り崩さねばならず……莫大な労力と時間を要します」
「山を……そりゃ無理だねぇ」
わたしの言葉に、ロエナも小さく肩を落とした。
マテオは別の案を探そうとしているのか、再び視線を地図に落とす。
やっぱりみんな、あの木を「越えられない壁」として見ている。
「……でも、お米は諦めきれないなぁ」
ぽつりと呟いたわたしに、アゼレアの視線がこちらへ向く。
静かな琥珀の瞳が「また妙なことを考えているな」と語っている気がして、わたしは慌てて笑った。
「とにかく、一度見てみようよ。どんな木なのか、実際にさ」
マテオが少し驚いたように目を瞬かせる。
けれどすぐに、「承知いたしました」と深く頷いた。
こうして、わたしたちはセイレナの木の森を視察することになった。
◇ ◆ ◇
翌日。
日程の調整を終え、わたしたちは馬車に揺られながら西門を抜ける。
門を出ると、すぐに収穫を終えた畑が広がった。
刈り取られた麦の切り株が、陽を受けて黄金色に輝き、風が渡るたびにさらさらと揺れていた。
農夫たちが藁を束ね、馬車に積み込んでいく姿も見えて、道沿いはどこかのんびりとした空気に包まれている。
「……こうして見ると、やっぱり豊かな土地なんだね」
わたしは窓の外を眺めながら、呟く。
わたしは鼻をくすぐる藁と土の匂いに、思わず深呼吸した。
実りの季節の匂い。
少しだけ胸が温かくなる。
「ほんと、気持ちいい風ですね」
ロエナが小さく微笑む。
けれど、馬車の前に座るマテオの表情は険しいままだった。
「……問題は、もう少し先にございます」
その言葉に、胸の奥がきゅっと緊張する。
向かう先――セイレナの木が生い茂る森が、わたしたちを待っているのだ。
馬車はやがて畑を抜け、川へと続く小道に入った。
しばらく進むと、空気がじっとりと重くなっていくのがわかる。
窓の外を覗き込んだわたしは、目を丸くした。
「……なにこれ」
そこに広がっていたのは、見たことのない森だった。
地面から突き出した無数の根が絡み合い、まるで大きな生き物が地面を這っているように見える。
前世で言えば、マングローブの木に似ている。
だけど、幹からはべっとりとした黒っぽい樹液が流れ落ち、陽の光を受けて鈍く光っていた。
甘ったるいような、鼻をつくような匂いが風に乗って流れてくる。
胸の奥がむかむかするほど濃くて、思わず鼻をつまみたくなった。
「……これが、セイレナの木です」
マテオの声も、どこか重苦しい。
ゆっくりと速度を落とし、馬車が止まる。
辺りに広がるのは、湿地のようなぬかるみと鬱蒼と茂る木々。
まるで壁のように森が立ちふさがり、川へ続く道を完全に遮っていた。
「うわぁ……本当に、塞いでるんだね」
わたしの呟きに同意するように、ロエナがコクコク頷いた。
ちらりと横目でアゼレアを見れば、琥珀色の瞳を細めた彼女は、口を開くことなく、森を見据えていた。
アゼレアのことだ。
何かあれば言ってくるだろうと、今は思考の邪魔をしないでおく。
馬車から降り、改めて見渡すとよくわかる。
昼なのに薄暗く、じっとりとした空気。
雨上がりというほどじゃないけれど、地面がべっちゃり、靴に泥がまとわりつく。
……それにこの匂い。
甘ったるい匂いに顔をしかめながら、わたしはふと口を開いた。
「ねぇ……ここって湿地帯なの?」
マテオが首を横に振る。
「いいえ。雪解けの水が溜まっただけでございます。それに、この一帯は山の影になっておりまして、日当たりも悪い。ゆえに地面が乾きにくく、湿地のように見えるのです」
「なるほどね……だからじめじめしてるんだ」
わたしは内心で首を傾げた。
湿地じゃないなら、やっぱりマングローブとは違うのだろうか。
形は似てても違うもの。
確かに記憶の中のマングローブは、こんなに樹液を垂れ流してなかったはず。
「この樹液……毒とかあるの? 危ない?」
恐る恐る尋ねると、マテオはすぐに首を横に振った。
「いいえ、毒性はございません。ただ……べたつきが酷く、衣服や肌につけばなかなか落ちません。あまり触れない方がよろしいかと」
「ふぅん……」
そう言われると、逆に気になる。
幹から滴り落ちる雫が陽に照らされて光っているのを見ていたら、黒蜜みたいでもう我慢できなかった。
「ちょっとだけなら……」
そっと指先で樹液をすくい取る。
「うわっ……酷い粘り気!」
べったりと糸を引いて、指同士が離れない。
慌てて振ってみたけれど、逆にねっとり伸びて余計に絡みつく。
「だから言っただろう……」
アゼレアが、呆れたようにため息をついた。
その瞳は完全に「学習しない子供を見る目」になっている。
記録係として帯同した数名の役人も同意見なのか、みな深く頷いた。
でも、みんなのこういう顔を見るのは、いつものことだ。
あんまり気にはしない。
それよりも、この粘り気のほうがずっと気になる。
指先を合わせては離し、ぺたぺたと繰り返してみる。
糸を引くようにくっついて、なかなか面白い。
「お嬢様、じっとしていてくださいませ……!」
ロエナが慌てて布を取り出し、わたしのもう片方の手のべたつきを必死に拭き取ってくれている。
わたしはぺたぺたをやめられず、結局片手で遊びながら、苦笑いするしかなかった。
……これ、なんだか木工ボンドに似てる。
子供の頃、工作でよく使ったあの白いやつ。
わたしの白い悪魔を駄目にした白いやつ。
あれ以来、木工ボンドは使っていなかった。
接着剤は、この世界だと松脂が主流だったはずだ。
……でも、この粘り気ならもしかして、それに代わるものになるんじゃ……?
ちょっとわくわくしてきた。
わたしは役人に頼んで、地面に落ちていた枝を拾ってきてもらった。
それを受け取ると、再び幹から滴る樹液を突っついたり、すくったりしてみる。
「……今度は何をする気だ」
アゼレアが小さく眉をひそめ、すっとわたしから距離をとった。
その横でロエナも、何かを察したように、そろりと後ろへ下がる。
けれど、役人たちとマテオだけは違った。
みな困った表情のまま、わたしの傍から離れようとはしない。
……いいね。その役人根性!
わたしはぺたぺたと枝で樹液をすくいながら、ふと気になって口を開いた。
「ねぇマテオ、この樹液って……乾いたらどうなるの?」
マテオは少し考えてから、木の根元を指さした。
「ご覧ください。あのように……固くはなりますが、石のように硬質ではありません。一塊となって、こびりつく程度です」
「ふむふむ……」
わたしは枝の先にまとわりついた樹液をじっと見つめ、胸の奥にまた小さなわくわくが広がっていくのを感じていた。
「……煮詰めるとどうなるんだろ?」
わたしがぽつりと口にすると、マテオが目を瞬かせた。
「煮詰める……ですか? これを?」
「うん。燃やすと煙がすごいんだよね?」
「はい。匂いも酷く、煙の量も多くて……とても燃料にはなりません」
「でも、水分だけ飛ばせば……松脂みたいになりそうだけど」
マテオは眉を寄せ、困り顔。
「松脂でよいのでは?」
「ふふん。この木が役立たずじゃなくなるかもしれないよ?」
わたしはにやりと笑ってみせた。
……役立たずじゃないよ……そうでしょ、コダマ。
心の中でそう呟きながら、ふと視線を上げる。
枝の間でこちらを覗いていた小さなコダマたちが、同意するように弾んだ。
すると、アゼレアがちらりとこちらを見て、何も言わずに手を軽く振る。
それは「好きにやらせろ」とでも言うように見えて、近くの役人が慌てて準備に走った。
◇ ◆ ◇
……やりますかぁ!
昼食を終えたあと、準備してもらった鍋にたっぷりの樹液を流し込んだ。
火を起こそうと薪を組むけれど、辺りは湿気が酷く、なかなか火が点かない。
「うーん……これじゃ無理かなぁ」
わたしが困っていると、横にいたアゼレアが小さくため息をついた。
そして指先を軽く払うと、そこに小さな炎が灯る。
ぱち、と音を立てて薪に火が移り、一気に赤く燃え広がった。
「ありがと! ……って、ん?」
いつもなら「もうっ」っと返してきそうだけれど、アゼレアはなぜか自分の指先をじっと見つめていた。
琥珀色の瞳がかすかに揺れていて、普段の彼女らしくない気がする。
どうしたんだろう――そう思いながらも、わたしは鍋に目を戻した。
鍋の中で、樹液がぐつぐつと泡を立てていく。
木の甘ったるい匂いがさらに濃くなって、鼻がむずむずした。
わたしは目を凝らして観察する。
……確か、木工ボンドも、松脂の接着剤も……たしか煮詰めて濃くして、べたべたを利用して……。
必死に記憶を引っ張り出そうとするけど、細かい手順なんて憶えていない。
ただ、わかるのは。
「……これ、やっぱり固まってきてる」
甘ったるい匂いがどんどん濃くなり、胸の奥にむせ返るようにまとわりついてくる。
木が焦げたような苦い匂いも混じり、顔をしかめる。
だが、時より吹く風が甘い煙を押し返す。
よく見れば、コダマたちがせっせと風を起こしてくれているようだ。
……ありがとね。
枝の先で軽く混ぜてみると、最初はシャバシャバと流れ落ちていたのが、やがて糸を引くほど粘りを帯びる。
ねっとりとした感触が枝にまとわりついて、振っても落ちない。
さらに煮詰まると、べたつきが飴のように変化していく。
ぶくぶくと立ち上る泡は重たくなり、すくい上げればとろりと塊になって、冷えるにつれてカチカチに固まっていった。
やがて残ったのは、つやのある黒い塊。
光を受けて鈍く光るそれは、石とも煤ともつかない不気味な見た目で、けれど表面を割れば中はまだべたりと糸を引いた。
わたしはその変化に目を輝かせながら、枝先に残った樹液を指でつまんでみる。
「すごい……これ、やっぱり何かに使えるよ」
わたしは枝を回しながら、笑みをこぼした。
すると横で見ていたロエナが、布を手に取り口を開いた。
「また……もう、お嬢様。でも、これはべたつきが強すぎて、道具にこびりついたら取れないのでは……」
「ううん、そこが重要かもしれないの!」
わたしの声に、アゼレアがじっとこちらを見て、わずかに眉を上げた。
……また何か思いついたな、って顔ね。そう、思いついたの。
わたしは笑って誤魔化しつつ、枝の先に固まった樹液をもう一度じっと見つめた。
接着剤。
今は松脂が主流だけど、この粘りなら、きっと新しい方法に繋がるはず。
新しい可能性を想像すると、胸の奥が期待でどんどん膨らんだ。




