75話 隠すもの ~小さな秘密と大きな嘘~
実験も無事終了。
ある程度、結果を紙にまとめると、所長は忙しいのか、さっさと帰ってしまった。
執務室の机に肩肘をつきながら、わたしは小さくため息を吐いた。
「はぁ……すぐ帰っちゃうし……全部持ってくし……」
精霊の雫が入った瓶を「検証する」と言って、所長は一つ残らずきっちり回収していったのだ。
冷たい紫の目を思い出す。
あの所長相手に抗議する気力なんて、最初からなかったけど……。
……でもぉ、でもぉ~。
わたしは机の下にそっと手を伸ばし、布に包んだ小瓶を取り出す。
光に透かすと何も入っていないように見えるけど、わたしにはちゃ~んと、きらきらした金色の雫が見えている。
「ふふ~ん、想定済みなのだっ」
得意げに鼻を鳴らす。
もちろん所長に見つかったら、またあの呆れ顔をされるに決まってる。
だから、これはわたし専用の……そう、ご褒美用。
瓶を胸に抱きしめながら、小声で精霊たちに問いかける。
「ねぇ、ほんのちょっと舐めるくらいなら、平気だよね?」
ふわりと舞った小さな精霊たちが、一斉にこくこくと頷いた。
……よし、許可は下りた!
わたしはにやりと笑って、机の引き出しに小瓶を大事にしまいこんだ。
◇ ◆ ◇
それから数日後。
執務室に顔を出したマテオが、帳簿を抱えたまま眉をひそめている。
「マテオ、どうしたの?」
「それが……代理殿、少し困ったことになりまして」
わたしが首を傾げると、マテオは帳簿を机の上に置いて、手で数字の列を指でなぞった。
「大銀貨の残りが、思っていたよりも少ないのです」
「大銀貨……? えっと、どういうこと?」
「はい。豊作の影響で金貨を使った取引が増えましてね。結果として、大銀貨の用意が追いつかないのです」
「なるほど」と、わたしはぽんと手を打った。
「要するに釣銭不足ってことだね!」
「その通りです。ですので、余った金貨をサンドレアムへ送って、大銀貨に両替してもらう必要があるかと」
「うんうん、それなら簡単に解決できそう。すぐに申請書は書くね」
マテオは、その言葉にほっとしたように微笑み、机の上で帳簿を閉じた。
「それでは早速、各商店から金貨を集めて準備を進めます」
「お願いね」
こうして、その日のうちに商店を回り、金貨を預かる手配が進められた。
政治の駆け引きは、まだまだ。
でも、数字関係のお仕事はわたしの担当。
少しでも役には立っているのではと、思いたいところだったのだが……。
翌日、マテオは再び険しい顔をして執務室へ現れた。
表情を見る限り、今度は、さらに深刻そうだ。
「代理殿、大変です」
「えっ、今度は何!?」
机の上に並べられたのは、昨日商店から預かった金貨の袋。
マテオは一枚取り出すと、小さな秤の上にそっと置いた。
「……重さが、合いません」
「はあ?」
横に置かれた公定分銅と見比べると、ほんのわずかに針が傾いている。
わたしは思わず椅子から身を乗り出した。
「これって……もしかして」
「はい。偽金貨の可能性がございます」
……うわぁ……やっかいな単語が出てきちゃった。
わたしは頭を抱えて唸る。
「偽金貨ねぇ……」
「取引の規模を考えれば、かなり以前から紛れ込んでいたと見るべきでしょう。そうなると、数もそれなりに……」
マテオの顔は険しい。
ちらりとアゼレアの顔を伺い、すぐに視線をわたしに戻した。
「代理殿、各商店で使っている公定分銅を確認しましたところ、最後の検査は光の月、前節――つまり新年の時点でした」
「じゃあ……新年からずっと、検査してないってこと?」
「はい。ですので、その後に偽金貨を払い込み、大銀貨を集めていた可能性が高いのです」
すでにマテオは、公定分銅の検査時期を調べていたようだ。
わたしは、両手で机に頬杖をつきながら考える。
「なるほどね……そうやって大銀貨を抜き取ったってことかぁ」
頭の中で、パズルのピースが少しずつはまっていく。
マテオのおかげで、偽金貨が紛れ込んだ時期はわかった。
でも、まだパズルは完成していない。
横で帳簿を見ていたアゼレアが顔を上げ、マテオに言った。
「マテオ、各商店に指示を出せ。祭りの前と後で取引した相手を洗い出せ」
「承知しました」
マテオが頷き急いで退出する。
お茶の用意をしていたロエナが、マテオの焦りぶりを見て困ったように呟いた。
「……今度は偽金貨ですか」
「はぁぁぁ……」
わたしの口から出るのは打開策ではなく、大きなため息だけだった。
◇ ◆ ◇
翌日。
執務室の机いっぱいに、帳簿の束が積み上がった。
マテオが額に汗を浮かべながら、帳簿を次々と広げていく。
「ご指示通り、光の月――新年までさかのぼって確認いたしました」
ぱらぱらと捲られる紙面を覗き込む。
数字の羅列がずらりと並ぶ中で、目についた名前に指を止めた。
「……ん? これ、普段は取引してないよね」
「はい。単発の取引先です」
マテオが頷く。
「こうした商会が、祭りの前後でいくつか見つかりました」
「ふむ……」
アゼレアが横から覗き込み、指先で帳簿の端を軽く叩いた。
「商会の名を控えろ。他の帳簿と照らし合わせる」
その言葉にマテオは筆を走らせ、別の帳簿を開いた。
そして……。
「代理殿。取引の記録が、まったく見られない商店も多いのですが……逆に、一回だけ取引をしている商店がやけに多いのです」
マテオの報告に、わたしは眉を寄せる。
「一回だけ、ね……それって、わざと色んな店に顔を出してるみたいじゃない」
「そうですね。継続した取引ではなく、単発ばかり。怪しいと言わざるを得ません」
わたしは机に置かれた金貨の袋を指さした。
「じゃあ、このグラナート商会と取引した商店の金貨と、してない商店の金貨を比べてみようよ」
マテオがすぐに秤を用意し、商店ごとに仕分けられた金貨を計る。
何度かの計量、針がわずかに揺れて――止まってほしくない値で止まった。
「……やはり。取引をした商店から預かった金貨に、偽金貨が混ざっていました」
胸の奥がきゅっとなる。
……やっぱりか。
アゼレアが腕を組み、低く呟いた。
「可能性は高まったな」
「うん……なら――」
わたしは机に身を乗り出し、精霊たちがふわふわと浮かぶのを横目に言った。
「その商会の金の流れを追って!」
アゼレアとマテオが同時に頷いた。
さらに翌日。
執務室に顔を出したマテオは、重苦しい顔で報告を始めた。
「調べましたが……グラナート商会がどこから来たのかは、まったく分かりませんでした」
「……名前しか、残ってないってこと?」
マテオは渋く頷く。
「はい。単発で現れ、取引して消えただけ。流れを追うことは不可能です」
アゼレアが帳簿を閉じ、低く告げる。
「……これ以上はトバルの権限を越える。外にまで手を伸ばすことはできない」
その言葉に、わたしは唇を噛んで机に手を置いた。
「じゃあ、サンドレアムに報告して、返事を待つしかないってことかぁ」
「その通りです」
マテオが頷く。
「各商店には、再度公定分銅での検査を徹底させます。そして偽金貨で不足した分は、順次補填していく手筈を整えましょう」
「……うん、お願い」
悔しいけれど、犯人の尻尾を掴みかけたチャンスは、指の間から砂みたいに零れていった。
◇ ◆ ◇
夕食後。
マテオが去ったあとの執務室には、ランプの明かりだけが揺れていた。
先程マテオが持ってきた公定分銅の調査書を、アゼレアがじっと睨みつけている。
「アゼレア……どうしたの?」
気になって声をかけると、アゼレアは顔を上げずに答える。
「……おかしいと思わない?」
「おかしい?」
わたしが首を傾げると、アゼレアは指先で帳簿をとんとんと叩いた。
「報告によれば、公定分銅はすべて問題なしだったそうよ」
「ん? それなら重さでバレるはずじゃないの?」
……なんでバレないんだ?
「そうね。しかも証文も用意され、商人同士の取引できちんと計っている」
「……そのうえで偽金貨を渡してるってこと?」
「そういうこと」
わたしは思わず息を呑んだ。
「目の前で行われてるのに、誰も気づいてない……ってこと?」
アゼレアに顔を向けると、彼女は静かに帳簿を閉じ、冷たい目で呟いた。
「ダズマを憶えてる?」
「……ああ、いたね。奴隷商人ね」
以前に捕らえた奴隷商人を思い出す。
不正取引で名を消していた相手だ。
あの奴隷商の手口に似ていると思った時、背筋にひやりと冷たいものが走った。
「あれと似た仕組みか……そこまでは断定できない。だけど……厄介な相手であるのは間違いないわね」
ランプの炎が揺らぎ、アゼレアの横顔を照らす。
その影は、まるで闇に潜む相手の正体を暗示しているかのようだった。
頭では理解している。
けど、胸の奥に残るもやもやは拭えなかった。
町の人たちが必死に働いて得たお金を、こんなふうに騙し取られていたなんて。
わたしは机の端に置かれた小瓶をちらりと見た。
……せめて、次のご褒美の一口くらいは、気持ちを晴らしてくれるといいんだけど。
◇ ◆ ◇
化粧水の生産体制がようやく整った。
蒸留器の管を伝って、透明な液体が瓶に落ちていくのを眺めながら、僕は深く息を吐く。
「……これで量産に移れるね」
「うん。品質も安定。出荷分も確保できそう」
隣で器具を扱っているアイナが、真剣な表情のまま小さく頷いた。
彼女の手際も、もう職人のそれに近い。
……あれだけの量を作れば、嫌でも慣れる。
床に座り込んでいたポールが、木片と道具を抱えたまま僕を見た。
「なぁ、ノックス。この板に煤と油を塗るんだっけか?」
「ああ」
「……真っ黒な板なんか作ってどうするんだよ。炭焼きでも始めるのかと思ったぞ」
僕はその疑問に笑ってしまった。
ルルーナにこれを聞かされたときの僕と、同じ反応をしたからだ。
……久々に会ったルルは可愛かったなぁ。でも、せっかく会ったのに、これの説明だけなんて……もしかして、ちょっと照れていたのかな。
「違うよ。蝋板の代わりにするんだ。石灰で字が書ける。布で消してまた使えるから、授業用にちょうどいい」
「字が書ける……? 石灰で?」
ポールが目を丸くして、黒く塗った板を持ち上げる。
「孤児院の教室で使うらしい。依頼はトバルの政務官からだ」
「孤児院で、教室……?」
僕は頷いた。
ポールに、ルルーナの考えをそのまま伝える。
「識字や計算を学ばせたいらしい」
「へぇ~……トバルじゃ、孤児院で勉強させてんのか。すごいな」
感心したように板を眺めるポールを見ながら、僕は心の中で自慢するかの如く呟いた。
……そうだろう? そう思うよね。妹は天才なんだよ。それでいて、孤児にも教育を施そうとする。なんて慈悲深いんだ。
妹を称える讃美歌を考えていると、倉庫の扉が、がらりと開く。
ひょっこりと顔を覗かせたのは、マルコだった。
「お、いたいた~。ポール、バルト親方が探してたぞ~」
「やっべ……忘れてた。買い出しの途中だったんだ」
ポールは頭をかきながら、僕に預けられていた設計図を慌てて丸める。
「とりあえず、形にしてみるよ」
そう言い残して、ポールは慌ただしく作業場を飛び出していった。
「……あいつ、買い出し中だったの?」
作業しながら話を聞いていたアイナが、呆れたように言う。
それを聞いて、僕は肩をすくめて笑った。
「まぁ、新しい仕事を持って帰ったから、軽い説教で済むんじゃない?」
「ふふ、それもそうね」
自然と二人で笑い合う。
そんなやりとりを横で見ていたマルコが、ぽんと思い出したように言った。
「そうだ、ノックス。あの皮むき器、いいぞ~あれ。今はラウルに刃の厚みを調整してもらってるよ~」
「そうか。完成したら、また試してみてくれ」
「もちろんだよぉ」
マルコは頷いてから、少し声を潜めた。
「それはそうと、役所の知らせは聞いたぁ?」
「知らせ?」
マルコがこくこく頷く。
「なんか、グラナート商会ってとこと取引した商店は、至急役所へ届け出てくれってさ。うちの客が言ってたから、確かめに行くところだったんだぁ」
「グラナート商会……? わざわざ名指し……なにか不正でもあったのかな」
聞いたことはない。
けれど、もし取引があれば、もう誰か店の人が知らせに行っているはずだ。
「マルコ、それホントなの?」
「それを確かめに、いくんだってばぁ」
作業をしながら、アイナがマルコへ問いかけていた。
……まぁ、今はこっちだな。
僕は再び視線を戻し、瓶の中で化粧水がろ過されていく様子を見つめる。
透き通った液体が静かに満たされていくのを眺めながら、胸の奥で小さく呟いた。
……フレデリカ様にこれが売れれば……また一歩、夢に近付く。
いっぱいになった瓶の蓋を閉め、封をする。
それを木箱へ、アイナが移し始めた。
……さて、ルルに負けてられないな。まずは、これの交渉だ。
木箱に詰め込まれていく化粧水を見ていると、ルルーナが残した足跡が、しっかりと見えるようだった。




