73話 呼んでみよう ~変わらぬ笑顔~
お父さんに、手紙と例の雫が入った瓶を渡してから数日。
所長からの返事が届いたのは、収穫祭の余韻がまだ町に残っている頃だった。
封を切って読み進めるうちに、わたしは大きな溜息を吐いた。
「……やっぱりダメかぁ」
内容は簡潔だった。
――「確かに力を感じる。だが、目に見えるものがなければ研究は進められない」
それだけ。
所長らしいといえばらしい。
必要なことだけを端的に書くから、余計にどうしようもないのがよく分かる。
「やっぱり、わたしが直接いないとダメなんだよね……」
紙に額を押しつけたまま、ぐりぐり、ぐりぐり。
何も考えが湧いてこない。
所長をトバルに呼ばなきゃ。
でも、どうやって?
「えっと……商会のこと? 帳簿の整理? ……いや、アゼレアに任せればいいって言われそう」
顔を上げても、良い案は浮かばない。
「収穫祭! ……は、もう終わっちゃったし」
部屋を走り回ってる精霊たちを横目に、頭を抱える。
「孤児の教育のこと……? いや、それもまだ早いし……」
考えが浮かんでは、自分で却下。
はぁぁと息を吐いて、机にぐでぇっと突っ伏した。
数日後。
執務室で帳簿をめくっていると、報告書を確認していたアゼレアが顔を上げた。
「ルルーナ、トバルでも組合制度を導入することを検討すべきだと思うの」
「組合?」
アゼレアが頷く。
「孤児たちが教育を受けて、正式に労働力として働くことができるようになれば、市民権を得る道も開ける……もう一年経ったのだから、町の人々も理解できるはずよ」
「お小遣い稼ぎじゃなくて、ちゃんと仕事に就けるようにするってこと?」
「そう。彼らが社会の一員として認められることが大事」
わたしは目を丸くしてアゼレアを見た。
「そんなこと……できるの?」
「できるわ。もともとサンドレアムが始めた制度なのだから、アードの承認で可能よ」
「じゃあさ、孤児の教育制度も一緒にやっちゃおう!」
机に身を乗り出して言うと、アゼレアは小さく首を振った。
「それは難しいわね」
「なんで?」
「サンドレアムではその制度自体が存在していないの。参考になる資料も、成果の蓄積もない……おそらく却下されるでしょうね」
「だめかぁ~」
わたしはまた、机に顔を伏せた。
「……せめて視察を経て、納得できる成果を見せつければ、話は別かもしれない」
「視察って……むりそう~」
顔を横に向け、半目でアゼレアを見る。
「そもそも視察って誰が来るの?」
「領主から派遣された貴族か、あるいは平民のことだから、役所の関係者かもしれないわね」
その瞬間、わたしは勢いよく起き上がった。
「――それだっ!」
机をばんっと叩き、にやりと笑う。
……視察って形なら、所長を呼んでも全然自然じゃん!
アゼレアはきょとんとした顔でわたしを見つめ、やがて小さく溜息をついた。
「……また妙なことを考えているのね」
◇ ◆ ◇
思いついたら即行動!
わたしは机にかじりついて、筆を走らせた。
「拝啓、オルディナート様、お元気ですか――ってこれじゃ普通の手紙だ」
カリカリと書いては、ぐしゃぐしゃにして放り投げる。
次の紙を取り出して、もう一度。
「孤児の教育制度をトバルにも広げたいと思っています。そのために視察に来ていただけませんか。例の神の恵みも、研究が進むと思います」
書き終えて読み返すと、思わずにんまりした。
これなら、研究好きの所長の心をくすぐることができるはず。
でも、肝心なのは視察をどうやって頼むかだ。
「ねぇ、アゼレア。制度の視察って、どこにお願いしたらいいの?」
アゼレアは帳簿から顔を上げ、少し考えてから答えた。
「領主に直接申請しても、相手にされないでしょうね。位が違いすぎるもの」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「直轄領であることを逆手に取るのよ。役所宛に申請すれば、検討してもらえる余地があるわ」
わたしはポンっと手を打った。
「それは好都合!」
早速、申請用の紙を引っ張り出す。
見よう見まねで文言を整え、アゼレアに見せると、彼女は少しだけ眉をひそめた。
「……まぁ、子供が書いたにしては悪くないわね。直しておくから」
「ありがと!」
こうして申請書類は仕上がり、役所へ送られることになった。
……所長、ちゃんと来てくれるかな?
胸の奥がそわそわして、わたしは窓越しに快晴の空をじっと眺めていた。
◇ ◆ ◇
申請を出してから数日。
わたしは落ち着かない気持ちで、毎日のように窓から街道を覗いていた。
「まだかなぁ……」
「代理殿、そんなに身を乗り出しては落ちますよ」
横で帳簿をまとめるマテオに窘められるが、じっとしていられない。
――そして、ついにその時が来た。
大通りに馬車の列が現れる。
わたしは急いで椅子から立ち上がると、門の前で姿勢を正して待ち構えた。
ゆっくりと進む馬車が邸の前で止まる。
馬車から降り立つプラチナブロンドの髪を束ねた姿が見えた瞬間、胸がどきんと跳ねた。
……変わらないなぁ。
深呼吸をして、できるだけ落ち着いた声で挨拶をする。
「お久しぶりです、所長」
……あれ~? 久々の再会なのに、なぜに不機嫌?
わたしにはわかる。
所長は今、不機嫌である……なぜかは、知らない。
「お久しぶりです、代理殿」
所長は短くそう告げ、わたしを一瞥しただけで案内に従い、歩を進める。
その隣で眼鏡の青年――トランが肩をすくめて、口の端を上げた。
「ご無沙汰しております、代理殿」
いつもの二人。
わたしは、ちっとも変わらない彼らの態度に安堵した。
◇ ◆ ◇
案内したのは孤児院――元メネズ邸の離れだ。
今では机や大きな蝋板が並び、子供たちが賑やかに読み書きの練習をしている。
「……整っているな」
所長が低く呟いた時、背後から声がかかった。
「おや……やはり、貴殿でしたか」
振り返ると、杖をついたフェルトが立っていた。
静かに頭を下げ、落ち着いた声を響かせる。
「お久しぶりです。五年ほどになりますかな」
「……そうだな。奴隷売買禁止法の時以来か」
所長は淡々と応じた。
「はい。その節は大変お世話になりました」
二人は互いに目を合わせ、わずかに笑みを交わす。
わたしは思わず口を挟んだ。
「……お知り合いなんですか?」
所長が短く頷いた。
「そうだ。フェルト殿には、反対する農業都市に口添えをしてもらった」
「とんでもない。私はただ、伝えるべきことをしたまでです」
フェルトは軽く頭を下げると、大きな蝋板の前へ移動する。
子供たちを見渡し、わたしたちの前で視線を止める。
「今日は視察と伺っております……普段通りでよろしいですね?」
「頼む」
所長は短く答え、わたしと並んで席につく。
蝋板の前に立つフェルトが、子供たちへ声をかける。
教室いっぱいに元気な返事が響き、授業が始まった。
フェルトの声に合わせて、子供たちが音読を始める。
まだ拙い声も混ざっているけれど、全員が真剣な顔で蝋板を見つめていた。
「……ふむ」
隣で所長が小さく呟く。
筆を取るでもなく、ただ腕を組み、視線だけで子供たちの動きを追っている。
少し離れたところでは、トランが素早く紙に記録を取っていた。
子供たちの人数、年齢、読み書きの習熟度、授業の進行。
漏れなく書きとめているようだった。
「これ、そこで寝そうになってるの!」
フェルトの声に、子供の一人が慌てて背筋を伸ばす。
教室がくすくす笑いで揺れた。
わたしは前列の席に座りながら、背筋を伸ばし胸を張った。
この一年で、ここまでできるようになったんだ。
最初は字も知らなかった孤児たちが、今はちゃんと読み、書き、数を数えられる。
所長は評価してくれるだろうか……。
そんな思いで視線を横にずらすと、所長は相変わらず無表情のまま授業を見ている。
でも――その瞳の奥に、かすかな光が宿っているように見えた。
「代理殿」
後ろから小声で呼ばれ、振り返るとトランが紙束を差し出した。
「記録はとっておく。成果は十分に示せると思うぞ」
「……うん」
耳元でそう囁かれ、わたしは小さく頷いた。
誇らしさで、胸の奥が熱くなる。
トラブルもなく授業は終わり、子供たちが元気に挨拶をして教室を出ていった。
ざわめきが遠のいた後、室内には私たちだけ。
「……以上です」
フェルトが軽く一礼する。
所長は腕を組んだまま、しばらく黙していた。
やがて低く、しかしはっきりした声を落とす。
「読み書き、計算、ともに基礎は十分に定着している。年齢差を考えれば、習熟度はむしろ高い……短期間でここまで育て上げたのは評価に値する」
フェルトが静かに頷いた。
「恐縮です」
その言葉に、わたしはこみ上げる嬉しさをぐっとこらえる。
……やった、認めてもらえたんだ!
所長の視線がわたしに移る。
「だが、まだ課題はある。書く速さや、正確な計算に遅れが見える子もいた」
「……っ」
一瞬だけ胸がしぼみかける。
けれど――所長は言葉を続けた。
「それは伸びしろでもある。基礎が固まっている以上、次の一年で大きく成長するだろう」
冷静な声なのに、わたしは思わず拳を握った。
「……はい! もっと頑張ります!」
所長はわずかに目を細め、頷いた。
「トラン」
所長の短い呼びかけに、後ろで紙を整理していたトランが顔を上げた。
「記録を整理しろ。今日見た内容を報告用にまとめる。孤児教育の制度化に向け、根拠となる資料が要る」
「承知しました」
トランはすぐに筆を走らせ、紙束に走り書きを重ねていく。
授業の様子、子供たちの習熟度、教室の備品や雰囲気に至るまで、抜け漏れがない。
「さすが……」
わたしは小さく呟いた。
あの速さでまとめられるのは、本当にすごい。
「代理殿、胸を張っていい成果だ」
トランがちらりとこちらを見て、わずかに笑みを浮かべた。
からかうような響きが混じっていたけど、素直に嬉しかった。
「……はいっ!」
所長はわたしを一瞥し、再び視線を紙に落とした。
その横顔はいつも通り冷静で、何を考えているのかは読めない。
でも、今なら少しだけわかる。
この成果を、ちゃんと評価してくれている。
胸が熱くなるのを感じながら、わたしはもう一つのことを思い出していた。
……そうだ、次は例の瓶。
今なら、所長に見てもらえるはず。
◇ ◆ ◇
視察を終えると、わたしたちは邸へ戻った。
子供たちの声が遠ざかり、代わりに静かな廊下を歩く足音だけが響く。
「トラン」
所長が短く呼ぶと、トランはすぐに前へ出た。
「孤児の就労状況を確認してこい。商会の帳簿や、店で働く子供たちの様子も含めてだ。アゼレア、マテオ両名に聞けば詳細が得られるはずだ」
「はい。すぐに向かいます」
トランは小さく頭を下げ、足早に廊下の奥へ消えていった。
残されたのは、所長とわたしだけ。
執務室に入ると、所長は窓際の椅子に腰を下ろし、静かに視線を巡らせた。
紙束の山、インクの染みた机……まるで、わたしの仕事ぶりを確認しているのかのように。
……うぅ、なんか緊張する。
「ここが、君の職場か」
淡々とした口調だった。
「はい。まだ整ってないところも多いけど……なんとか回せています」
わたしは椅子に座り直しながら答える。
所長は短く頷き、机の端に置かれた帳簿を一冊手に取った。
書式を確認しているのだろうか。
顔は上げずに、口を開いた。
「……工夫が見えるな」
その言葉に、わたしはにっこりと笑った。
所長が認めてくれたことに、ちょっぴり嬉しくなる。
……やったね。
ぱらぱらと目を通し、数字を追ったあと、軽く閉じて机に戻した。
所長が顔を上げると、その紫の瞳がわたしを捉える。
「ん?」
この感じは懐かしい。
懐かしいんだけど、なんだか嬉しくない。
手のひらに嫌な汗がじわりと滲み、心音がやけに大きく聴こえる。
これは、お説教パターンだ。
それは所長の表情が物語っている。
……その笑顔はちょっと変じゃないですか?
「さて、私を呼びつけた理由を聞かせてもらおうか」
鉄仮面が口の端をほんの少し上げ、微笑んだ。
……あれ~……不機嫌の理由って、もしかして、わたし……なの?




