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私の秘密は増えてゆく ~この幸せを守るため――だからわたしは仮面をかぶる~  作者: 月城 葵
三章    少女と暴かれる秘密

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69話  その先へ ~私が立ち上がる理由~



 街へ戻ると、空はすでに夕暮れに染まり始めていた。


 森での一件を終えたライアットは、そのまま騎士団へ報告に向かった。


 私は一人、肩にかかる疲労を感じながら家路につく。


 玄関を開けると、ちょうどノックスも帰ってきたばかりのようだった。


 帳簿を抱えたまま、少し興奮した様子で私に声をかけてくる。


「おかえり、ステラ……ちょうどいい。知らせがあるよ」

「知らせ?」

「トバルから、大口の買い付けがあったんだ。量も種類も妙に多い。たぶん、買い付けの内容からしてルルなんじゃないかな」

「……ルルが」


 ……会いたい。


 けれどすぐに不安がよぎった。

 商会の仕事に同行なんて、できるだろうか。


 私の顔を見たノックスは、少しだけ口元を緩める。


「護衛は、たぶん父さんかな。同行できるかは分からない。ただ……ルルのことだから、放っておいてほしいなんて思っていないはずだよ」

「でも……」

「ステラが会いたいなら、父さんに相談してみるといい。条件はつくだろうけどね」


 ノックスの声は柔らかいけれど、いつものように核心を突いていた。


 心臓がドクンと鳴る。


 ……ルルに、会いたい。


 その気持ちを胸に、帰宅するライアットに思い切って切り出す決意を固めた。



 その夜、報告を終えたライアットが帰宅した。


 私は玄関で待ち構えるように立ち、深呼吸して声をかける。


「……父さん。お願いがあるの」


 いつもより真剣な声に、ライアットは少し驚いたように目を細め、黙って続きを促した。


「トバルへの商会の荷馬車に……私も同行させてほしいの。ルルに……会いたい」


 短い沈黙のあと、ライアットは深く息を吐いた。


「……そうか。お前の気持ちは分かる。だがな、護衛は仕事だ。遊びや寄り道じゃない」

「わかってる……」


 ライアットの目がわずかに鋭くなり、声の調子が変わる。


「なら条件がある。御者台か荷台で静かにしていろ。商会の人間の邪魔はするな。そして――護衛中は父親じゃなく、警備隊長として指示を出す。その時は必ず従え」


 仕事時の声。


 普段の父ではない、皆を守る男の響きだった。

 けれど次の瞬間、少しだけ眉を下げ、柔らかい声で続ける。


「……それが守れるなら、連れていこう」

「はいっ!」


 自然と声が大きくなる。

 

 ……父さん。


 ライアットの口元がわずかに緩んだ。

 訓練や仕事では決して見せない、あの甘い父の顔だった。




 ◇ ◆ ◇




 翌朝。

 まだ家の空気がひんやりしているうちに、玄関を叩く音が響いた。


 ルーチェが扉を開けると、背筋を伸ばしたジークの姿が見えた。深い青の瞳が、朝の光を受けてもなお鋭さを失わない。


「おはようございます。本日は、エステラ様にお話がございます」

「まぁ……エステラに? 所長さんが何のご用かしら」


 ルーチェは驚いたように首を傾げただけで、不安そうな色は浮かべなかった。所長の人柄を知っているからだろうか。むしろ「なるほど」とでも言いたげに微笑む。


 ルーチェが頷くと、私は急いで着替え、玄関へ向かう。


「準備はよろしいですか?」


 ジークが私に顔を向け言った。


「は、はい……」


 私が頷くと、ジークは無言で一礼し、馬車へと導いた。


 家の前に停まっていたのは、貴族用の箱型馬車。

 中へと足を踏み入れると、ふかふかの座席と遮音の厚い扉が、外の世界を切り離すように閉ざす。


 緊張に喉を鳴らしながらも、向かいにある小窓をそっと開けた。


 外の御者台に座るジークの背中が見える。

 私は少しためらいながら、声をかけた。


「ジークさん……小娘に様なんて、やっぱり変じゃないですか?」


 ジークはわずかに首を動かし、静かな声を返す。


「主の客人に敬称を用いるのは当然のこと。年齢は関係ございません」


 きっぱりとした言葉に、口をつぐむ。

 胸の奥にむずがゆさは残るけれど、「……そんなものか」と小さく呟いて納得した。


 馬車は静かに走り出すと、街並みを抜け、やがて石畳の整った通りへと入った。左右には塀に囲まれた屋敷が並び、ここが貴族街だと一目で分かる。


 市場の喧騒とはまるで違う、静かで張りつめた空気。

 その中を進む馬車の揺れに合わせ、私は膝の上で手を固く組んでいた。


 ほどなくして馬車が止まり、ジークが扉を開ける。


「どうぞ」


 促され、私は小さく息を整えて馬車を降りた。


 目の前にあるのは、以前にも足を運んだことのある屋敷。

 外観は重厚でありながらも、どこか無駄を削ぎ落としたような静かな威厳を湛えている。


 案内に従い中へ入ると、広すぎない廊下に落ち着いた絨毯が敷かれ、壁に掛けられた装飾品も最小限。けれど一つひとつが上質で、質素でありながら気品が漂っていた。


 飾り立てるのではなく、必要なものだけを選び抜いた空間――所長その人を映すように。


 執務室の前でジークが足を止め、軽く二回ほど扉を叩いた。


 少し間があって、「入れ」と所長の声がした。

 ジークが私を見て軽く頷く。


「エステラです。失礼します」


 胸の鼓動が強くなるのを感じながら、私は扉の向こうへと歩を進めた。


 扉が静かに閉ざされると、部屋の空気が一層張りつめた。


「座りなさい」

「はい……」


 執務机に腰を下ろした所長は、組んだ指を口元に添え、紫の瞳だけをこちらへ向けてくる。


「……まず確認する。昨日の件を、ライアット以外に話したか?」


 低く抑えた声。

 私は背筋を正し、首を横に振る。


「いいえ。父さん以外には……誰にも」

「そうか。それでいい」


 所長はわずかに頷き、机の上を指先で軽く叩いた。

 それだけで心臓が跳ねる。


「ここから先は、他言無用だ。君が関わったのは、結界内での魔物の出現――これは騎士団の上層部でしか認識していない問題だ」


 その言葉に、喉の奥がひりついた。

 やはり、ただの森の騒動ではなかったのだ。


 所長の眼差しが鋭さを増す。


「事の重大さを理解しなさい。そして余計な者を巻き込んではならん」

「……はい!」


 思わず声が強くなる。

 軽率な行動は許されない。分かっている。

 だからこそ、私は強く頷いた。


 所長は視線を外さないまま、低く言葉を紡いだ。


「昨晩、魔物の死骸は確認した……頭部はライアットが破壊したのだろうが、後ろ脚の吹き飛び方は不自然だった」


 紫の瞳が鋭さを増す。


「つまり――ライアット以外に、援護した者がいる。あとから合流したのではない。その場に、最初からいたな?」


 呼吸が止まった。

 心臓がひどく脈打つ。


 ……どうしよう。父さんから、どう報告したかは聞いてない。


 口を開けずにいる時間が、やけに長く感じられた。


 だが――。


 ……嘘は、だめ。ここで誤魔化したら……周りを巻き込んじゃう。


 私はぐっと拳を握り、正面から所長の瞳を見返した。


「はい……」


 声は震えていた。けれど、隠すことはしなかった。


 所長の瞳がじっと私を見据えた。


「……魔法を使えるな?」


 鋭い問いに、喉が詰まった。

 返す言葉が出ない。


 ……答えられない。


 所長は間を置かず続ける。


「ライアットが魔法を使えるのは知っている。傭兵として戦場を渡り歩いた者だ。実績もある。平民の中にも、まれに魔法を扱える者がいることは承知している……」


 机の上に組んだ指が、わずかに動いた。


「教えたのはライアットだな?」


 胸の奥で迷いが渦巻く。


 ……ここで嘘をついても意味ない。所長は父さんが魔法を使えることを知っている。きっと、誤魔化したら……もっと厄介になる。


 強く唇を噛み、視線を逸らさずに告げた。


「……はい。父さんに、教わりました」


 短い沈黙のあと、所長の口元がわずかに緩む。


「素直でよろしい」


 低い声だったが、不思議と冷たさは感じなかった。

 所長が目を細め、話題を変えた。


「私が渡した首飾りは持っているか?」

「えっ……? あ、はい。持ってます」


 急な問いかけに戸惑いながらも、私は胸元からそっと取り出した。


「見せなさい」


 言われるまま、机の上に置く。


 所長はそれを手に取り、静かに観察した。

 赤水晶のような石を透かして、指先で軽くなぞる。


「……これは、大気中の魔素を吸収して蓄積できる物だ」

「ん……?」

「つまり、魔力を蓄える機能がある。渡してからそれなりに経つが――溜まっている量が随分と少ない。アゼレアの魔法を防いだとしても、減りが大きいな」


 その淡々とした声に背筋が冷たくなる。


 ……これが防いでくれたんだ。


 だが、減りが激しいとはどういうことだろう。

 思い当たるのは、身体強化とあの一撃のみ。


 ……でも、あれは。


「それは……わ、私が……身体強化をずっと使っていたからだと……」


 所長は、見透かしたような目で私を見た。


「身体強化は魔力をほとんど使わない。習わなかったか?」

「……習いました」

「では、この減り方の証明にはならん」

「……っ」


 息が詰まる。自分でも説明できなかった。

 所長は静かに首飾りを机に置き、私の目をまっすぐに射抜いた。


 目を逸らすことすら許されないような重さに、握った掌に汗が滲む。


「――では、エステラ。魔物の後ろ足を吹き飛ばした魔法……あれは、どうやって放った?」

「……自分でも、わからないんです」


 声が震える。けれど、嘘はつけなかった。

 所長は椅子の背に深く身を預け、指を組んで静かに問う。


「どういう状況だったのか、説明してみなさい」

「あのとき私は、魔物の動きを止めようと必死で……身体強化を全開にして……それを矢に込めたつもりでした。でも、放ったのは――」


 瞼の裏に、あの灼熱の閃光がよみがえる。


「――あんな……魔法のような一撃でした」

「つまり、自分でもわからないということか?」

「……はい」


 短い返事に、所長は小さく息を吐いた。


「制御できない魔法ほど危険なものはない。君の一撃は……下手をすれば、上級貴族に匹敵するほどの威力だ」

「っ……!」


 耳を疑った。

 思わず椅子の肘掛けを掴み、前のめりになった。


 ……わ、私が……上級貴族に……?


 所長は眉ひとつ動かさず、冷ややかに続けた。


「力は可能性だ。しかし制御できなければ、恐怖でしかない」


 胸の奥が熱く痛み、拳を握りすぎて爪が手のひらに食い込む。


 ……私なんかが、そんな力を……?


「それじゃ……暴発したら……」


 目を伏せた私に、所長の声が落ちた。


「ならば学べ」


 はっと顔を上げる。

 紫の瞳が揺るがぬまま、真っ直ぐに私を見ていた。


「え……?」

「困惑するのも無理はない。平民が魔法を学ぶなど、常識外れだからな」


 淡々と告げる声に、自然と眉が寄る。

 所長が何を考えているか、わたしには少しも読めなかった。


「エステラ。平民と貴族の違いはなんだ?」

「……魔力の、有無……ですか? あとは家柄とか」


 所長が軽く頷く。


「そうだ。だが私は君に貴族になれと言っているのではない。その可能性を捨てるべきではない、と告げているだけだ」


 所長はわずかに視線を伏せ、次に私を見上げる時には瞳の奥に冷たい光を宿していた。


「君の妹は――法を曲げた。いや、叩き折ったと言った方が正しい」

「ルルが……」


 胸が震える。

 信じられないけれど、どこか納得してしまう。ルルーナなら……と。


 所長は静かに頷き、口調をわずかに和らげた。


「時間のある時でいい。ジークから学びなさい」




 ◇ ◆ ◇



 屋敷を出ると、まだ冬の冷たさが残る風の中に、かすかに春の匂いが混じっていた。雪解けの水を含んだ空気が頬を撫で、石畳にはうっすらと光が反射している。


 馬車へ向かう途中、隣を歩くジークがふいに口を開いた。


「……緊張されたでしょう」

「っ……!」


 見透かされたようで思わず足を止める。


「怖かったです……」


 小さく、けれど素直に答える。

 ジークは目を細め、どこか優しく微笑んだ。


「我が主は、恐ろしくもあり……慈悲深くもある方です」


 短い言葉だったが、不思議と胸の奥が温かくなる。


「はい……そうですね。厳しいけれど、道は示してくれました」


 ジークは軽く頷き、続けた。


「指導する日取りが決まりましたら、ご連絡いたします」

「はい。よろしくお願いします」


 わたしは深く頭を下げる。

 再び歩き出した足取りは、先ほどよりも少し軽かった。


「どうぞ」


 ジークが静かに馬車の扉を開けてくれた。


「……ありがとうございます」


 私は小さく会釈をして踏み段を上がり、馬車に乗り込む。


 座席に腰を下ろすと、背中にあった緊張が少しずつほどけていった。


 ジークが軽く手綱を鳴らすと、馬車は午前の日差しの中をゆっくりと動き出す。


 窓の外を眺めれば、サンドレアムの街並みがゆっくりと流れていく。


 冬の名残りはまだ濃いけれど、軒先に干された洗濯物が春風に揺れ、土の匂いがほのかに漂っていた。


 やがて馬車が止まり、ジークが静かに扉を開けてくれた。


「……お疲れさまでした」

「ありがとうございます」


 小さく礼を告げ、わたしは踏み段を下りる。


 玄関の扉が開き、ルーチェが迎えに出てきた。

 私の顔をひと目見るなり、にこやかに微笑む。


「……おかえり」


 その温かな声に、胸の奥に溜まっていたものがほどけ、私は思わず微笑んだ。


「ただいま、母さん」


 いつものやり取りだったが、それだけで心が安らぐのを感じた。



 翌朝。

 空気はきりりと冷たいのに、吐く息の白さの奥に、どこか柔らかな匂いが混じっている。


 商会の店先ではルーチェが私の襟元を整え、首に薄いマフラーを巻いてくれた。


「冷えるからね。向こうに着くまで外では外さないのよ」

「うん。ありがとう、母さん」


 荷馬車の影で荷の確認をしていたライアットが、こちらへ歩み寄る。


 普段の穏やかな目つきから、仕事の厳しさに切り替わる瞬間の声。


「もう一度だけ言っておく。荷台で静かに。指示には従う。それが守れれば問題ない」

「はい」


 頷くと、ライアットはほんの少し眉を緩めてから、商会の荷馬車へ視線を向けた。


 中には木箱がいくつも積まれている。

 側面にはレント商会の焼印。

 蓋の隙間から、木の匂いとぬか石鹸のやさしい香りがふわりと漂い、洗濯板の板目が朝日に光る。


 店の角から、ノックスとアイナが駆けてくる。

 ノックスは帳簿の束を脇に抱え、息を整えながら笑った。


「間に合った。ステラ、これ、積み荷の控え。万が一の時に父さんへ渡して」

「了解。ありがと」


 アイナは布袋をそっと差し出す。

 焼き菓子が少しだけ入っているらしい。


「マルコのとこで作ったの。妹ちゃん――じゃなくて、ルルーナ様に。甘いもの、疲れた頭にいいらしいよ」

「ふふ、伝えるね。ありがとう、アイナ」


 ノックスが軽く顎を上げ、目で「いっておいで」と告げる。


 私は大きく息を吸い込んで、荷台の縁に手をかけた。


「出るぞ」


 ライアットの声とともに、御者が手綱を鳴らす。

 ゆっくりと車輪が転がりはじめ、家並みが後ろへ流れていく。


 ルーチェが手を振り、ノックスとアイナも並んで小さくなるまで手を振ってくれた。胸の奥が温かい。


 ……行ってくるよ。




 ◇ ◆ ◇




 サンドレアムの東門。

 見慣れた石の門を抜けると、風の匂いが変わる。


 畑には青みを帯びた冬小麦。

 土の色がところどころ顔を出し、春の準備が着々と進んでいるのが見て取れた。


 荷台には麻袋と木箱。

 私は毛布にくるまり、身を小さくして揺れに合わせて呼吸を整える。


 商会の警備が左右に数名。先頭にライアット。

 視線だけで状況を量り、無駄のない合図で隊列が呼吸するみたいに伸び縮みする。


 しばらく進むと、山道が始まった。

 日陰の斜面には雪が残り、車輪が凍った轍を踏むたびに、シャリッと乾いた音がする。


 木々の間を抜ける風は冷たいけれど、梢の先に柔らかな光。遠くの沢の水音が、冬と春の境目を優しくなぞっていた。


 ふいに、荷台の帆布の向こうからライアットの低い声がした。


「凍結だ。少し揺れるぞ」

「……はい」


 身を低くすると、荷車が大きく一度だけ軋み、それからまた穏やかに進み出す。


 雪解け水が細い筋になって道を横切り、陽にきらりと光った。


 山道を抜けると景色がひらけた。


 丘がゆるく連なり、葉の落ちた木々の間を小さな小川が蛇行している。


 トバルへ続く道の両側には、青々とした冬小麦の畑が一面に広がっていた。その奥には小さな民家の屋根。煙突から立つ白い煙が、空の青に溶けていく。


 行き交う隊商とすれ違うたび、御者同士が短く合図を交わす声が聞こえた。


 昼を少し過ぎた頃、目的の町――トバルの輪郭が現れる。


 ……ここがトバル。


 低い石壁と見張り塔、遠くには風車も見える。

 門の手前には検問の列。


 私たちの荷馬車が止まると、ライアットが馬から降り、書状と印章を見せる。


 兵士が一礼し、列はするすると前へと流れ、やがて門をくぐった。


 レント商会の商隊が町へ入る。

 石畳はサンドレアムよりも白く、建物は背が高い。


 ……白い筒状の建物、あれは倉庫?


 通りの両側には問屋が肩を並べ、行き交う声は張りがあるのに不思議と秩序が保たれていた。


 緩い丘の上に貴族の邸の屋根が見える。


 ……あそこにルルが。


 荷馬車は商会の納入先をいくつか回り、控えを渡しながら荷を下ろす。


 ぬか石鹸の箱が担がれていき、洗濯板の山が軽くなるたび、心の奥でも何かがふっと軽くなる。ここに来た意味が、ひとつひとつ形になるみたいだった。



「最後は、アゼレア様の邸だ」


 ライアットの声に肩が跳ねる。

 荷はもうほとんど残っていない。

 胸の鼓動が速くなるのを、私は毛布の下でぎゅっと手を握ってやり過ごした。


 ……アゼレア。


 所長から聞いたときは信じられなかった。

 あれは私たちを助けるために、演じた芝居だろうと所長は言った。でなければ、アイナに渡した黒曜石の説明がつかないと。


 結果をみれば、その通りだった。

 詳細はわからない。でも、彼女はルルーナと孤児を守っていたのは事実だ。


 ……アゼレアにも謝らなくちゃ。


 邸の前で荷馬車が止まる。


 正面門は紋章以外の余計な飾りがなく、けれど真っ直ぐで、よく磨かれている。どこか空気が澄んでいる気さえする。


 門番にライアットが名乗り、短い確認ののち、門が開く。


「エステラ。ここからは走るな。ついて来い」

「うん」


 荷台から降りる。

 足の裏に石の冷たさを感じながら、ライアットに続く。


 整えられた中庭に、風に触れた葉が囁くように触れ合う。


 玄関扉が内へ開き、使用人が深く礼をした。


 通された廊下は、よく知るサンドレアムの役所とは違う静けさ。壁にかけられたランプの炎が、柔らかく揺れている。


 角をひとつ曲がるたびに、胸の奥の熱が少しずつせり上がってくる。


「こちらへ」


 案内してくれたのは、若い侍女だ。

 落ち着いた目で、どこか優しさを感じる。


 私を見ると、ほんの一瞬、表情がほどけた。


 扉の前で足が止まる。


「レント商会の方がお見えになりました」


 ライアットが一歩下がり、視線で「行ってこい」と告げた。


 喉がひくりと鳴る。


 ……ここに、ルルが……。


 私は拳を小さく握って、扉に向き直る。

 扉が静かに開いた。



「――お姉ちゃん?」


 聞き慣れた声が、胸の中心に灯をともすみたいに広がった。


「……ルルっ!」


 次の瞬間、足が勝手に前へ出た。

 小さな体が勢いよくぶつかってきて、私は両腕でしっかり抱きとめる。


 ……温かい。ちゃんとここにいる。


 息を吸うたび、涙と笑いが同時にこみ上げてくる。



「来てくれたんだ」

「うん……うん、来たよ」


 肩越しに、ライアットが目を細めて立っているのが見えた。


 私はルルーナの髪をそっと撫で、耳元で小さく囁く。



「会いに来たよ――話したいこと、たくさんあるの」



 ルルーナがこくりと頷き、ぎゅっと抱きしめ返してくる。


 その温もりに目を閉じると、遠い山道の冷たさが、すっと溶けていった。










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