73話 嵐は突然やって来る ~見えない風の中で2~
午前中の調査は、役人たちが畑や倉庫を視察する形で進められた。
マテオが帳簿を開き、説明を加えるたびに、役人たちは数を記録して頷いていく。
その様子を少し離れた場所で、アゼレアと並んで見守っていた。
わたしは後ろに控え、必要があれば補足を挟む立場だ。
「ねぇ、どう思う?」
わたしは小声で、アゼレアに問いかける。
「法に触れているわけではない。だから、今のところは何とも言えん」
アゼレアは視線を役人たちから外さず、低く抑えて答える。
「ただ――あの男には気をつけろ」
わたしは短く頷いた。
奇抜な行動ばかり目立つが、それだけで済ませていい相手ではない。
昼食を終えると、再び調査が始まった。
だが、どこを探してもレックナートの姿がない。
従者や役人たちも困惑していたが、調査自体は滞りなく進むので、そのまま作業は続けられた。
そして夕刻に近い頃。
町外れの通りが、どよめきに包まれた。
振り返ると、狩人たちを従えて戻ってくるレックナートの姿があった。
肩には立派な角を持つムッガルが担がれ、その後ろにも、もう一頭が引きずられている。
「二頭も仕留められるとは……! 流石は貴族様だ!」
集まった平民たちが口々に称賛する。
その声を聞きつけ、子供たちが次々と駆け寄ってきた。
「すげぇ! あんな大きいのどうやって?」
「矢、どこに当たったの?」
レックナートは得意げに胸を張り、片手をひらひらと振った。
「崖の上から狙いを定めてな……俺は風を読んで、ぐっと弓を引き絞り、放った矢が――一撃で心臓を貫いたのだっ!」
子供たちは目を輝かせ「ほんとに!?」、「かっけぇ!」と歓声を上げる。
「それだけじゃないぞ。もう一頭はな――走り出したところを正面から突いてやった! ほら、この角の傷跡が証拠だ!」
わざわざ角を子供たちの目の前に差し出し、獲物の大きさを見せびらかす。
「うわぁ……!」
「でっけぇ!」
彼はますます調子づき、身振り手振りで狩りの様子を再現し始めた。
弓を構える仕草、崖を駆け下りる真似、倒れた獲物に止めを刺す格好。
周囲の大人たちは呆れ顔を隠しもせなかったが、子供たちは大興奮で彼を取り囲む。
「どうだ、すごいだろう!」
「すごいすごい!」
貴族の徴税官が、子供たちに混じって胸を張っている。
子供たちの目はきらきらと輝き、歓声が次々と上がる。
わたしは少し離れた場所からその光景を眺め、思わず呟いていた。
「……なんなの、あの人」
周囲の空気があまりにも賑やかで、二度目のその言葉に誰も異を唱えなかった。
一日目の視察を終え、執務室へ戻る。
執務室にはランプの灯りが揺れており、帳簿を閉じたアゼレアが、窓辺に視線をやりながら小さく息を吐く。
「今日一日、お疲れさま。よく頑張ったわね」
「……でもさ」
わたしは机に肘をつき、言葉をこぼす。
「あの貴族、なんなの?」
アゼレアは顎に指を添え、少し考えてから言った。
「目的は分からないわ。けれど、少なくとも危害を加えるようには見えなかった」
「なんでそう思うの?」
「普通なら、最初に釘を刺してくるものよ」
アゼレアの声は落ち着いていた。
「『お前は平民の身だ、口を出すな』――そう言って、私を含め、部下をも黙らせる。でも、彼はそれをしなかった」
「……言われてみれば」
わたしは昼間のやり取りを思い出す。
確かに横柄な言葉はあったけれど、それ以上の圧はなかった。
「むしろ、あなたに興味を持っているようにも見えたの。最初の反応からしてね」
「興味……」
わたしは口の中で繰り返し、首を傾げた。
正直、さっぱり分からない。
アゼレアも同じなのだろう。
腕を組み、しばし考え込んでから静かに言葉を落とした。
「わからないわね。でも、警戒しておくに越したことはないでしょう」
「だよねぇ……」
わたしは頷き、机に突っ伏した。
「明日も気が抜けないね」
「そうね。気を張っていきましょう」
ランプの火がぱちりと揺れて、夜の静けさが執務室を包み込んだ。




