72話 積み上げたもの ~春の風は吹き抜けて2~
わたしが頭を抱えていると、控えめに扉を叩く音が響いた。
「入れ」
アゼレアが短く答える。
扉が開いて入ってきたのは、ロエナだった。
手に帳簿の束を抱えていて、きっちり整った歩き方のまま机の前に進み出る。
「お嬢様、収穫祭の準備について、ご報告がございます」
「収穫祭の?」
顔を上げると、ロエナが真面目な顔で頷いた。
「はい。今年は豊作でございますので、町の皆も例年以上に期待しております。去年は財政難で中止となりましたが……今年は例年通り、いえ、それ以上の規模で催される見込みです」
「おおっ、それは楽しみっ!」
自然と声が弾んだ。
「気が早いな」
アゼレアが言い捨てる。
……もう、アゼレアだって嬉しいくせに。口元緩んでるわよ!
「お嬢様」
ロエナは、さらに言葉を添えた。
「ただし、人手も物資もかなり必要になります。アード代理のお力添えがなければ、準備は間に合わないでしょう」
「……あれ、結局わたしも働くの?」
首を傾げると、ロエナはにこりと微笑んだ。
「もちろんでございます、お嬢様」
◇ ◆ ◇
町へ出てみれば、そこら中がざわざわしていた。
通りには屋台の骨組みが並び始めていて、木材を運ぶ大工や、仕込みの食材を山ほど抱えた商人たちでごった返している。
子供たちはその後ろを走り回って、まるで収穫祭がもう始まっているみたいだ。
「おおっ! お嬢様!」
荷車を押していた農夫が手を振ってきた。
「今年は量も多く、いい小麦ですぞっ! 祭りのパンは山ほど焼けそうだ!」
「わぁ、本当? 楽しみね!」
わたしも笑顔で返した。
孤児たちも負けていない。
露店の準備を手伝ったり、布の旗を持ってはしゃいだり、もう笑顔だらけだ。
「お嬢様! 見て見て!」
小さな子が、粗末な紙に絵を描いて振ってみせる。
稚拙だけど、色とりどりで可愛らしい。
「すごいじゃない。これ、飾ったらきっと賑やかになるね」
「うんっ!」
その横では、元メネズ派の役人たちが物資の確認に汗を流していた。
「釘は足りるか? ……おぉ、アード代理、こっちに急ぎで追加を回してくだされ」
「了解! 言っておくわ」
言葉も仕草もすっかり普通の町人で、周りの人たちも嫌な顔ひとつしない。
去年まで「メネズ派」と呼ばれて嫌われていたのに……今は一緒になって祭りの準備をしている。
……人の気持ちって、変わるんだなぁ。
孤児たちも、今日はお使いで大忙しのようだ。
小銭を握りしめて、野菜や布を買ってきては、得意げに袋を抱えて走ってくる。
「お嬢様、ちゃんと値切ったんですよ!」
……値切りまで覚えたの!?
「えらいえらい……って、ちゃんとお釣りも確認してる?」
まだ小さな子は計算が怪しいけど、それでも胸を張って見せる顔が誇らしげで、思わず笑ってしまった。
笑顔を向けられるたびに、胸の奥がぽかぽかしてくる。
去年は財政難で祭りどころじゃなかったから、みんなのはしゃぎようが倍増しているのがよくわかる。
……うん。今年は絶対に、いい収穫祭になる。
賑やかな町を抜けて畑の方へ出ると、どこも青々とした小麦が風に揺れている。
黄金色に実るのはもう少し先だけど、今年は本当に豊作になりそうだ。
と、その道の先に見慣れない役人の姿があった。
帳簿を手にして畑をじっと眺めている。
「誰?」
「領都から派遣された徴税官の下役でしょうな」
後ろにいたマテオが小声で教えてくれた。
「責任者が来る前に、こうして下級役人が現地を確認するのです」
「へぇ~、あれが」
わたしは一度そちらを見ただけで、深くは気にせず歩みを進めた。
畑の奥では、小さな精霊たちが穂の間を飛び跳ねていた。
光の粒みたいにキラキラしていて、まるでかくれんぼでもしているみたい。
……なに? 呼んでる?
わたしに気づいた精霊たちが、穂の間から顔を出しては手招きしていた。
仕方なく、「あっちの具合を見てくる」と適当な理由をつけて近づく。
そこには、小麦の穂から、とろりと垂れている蜂蜜みたいな金色の雫があった。
「……なにこれ?」
甘い匂いがふわっと漂う。
精霊たちは揃って「舐めてみろ」とでも言いたげに、ぴょんぴょん跳ねてジェスチャーする。
「えぇ……怪しいんだけど……」
でも、好奇心には勝てない。
わたしは周りに誰もいないのを確かめて、指先でそっとすくって、こっそり口に含んでみた。
……甘い。
蜂蜜みたいだけど、もっと澄んだ味で喉をすっと通っていく。
「おいしい……」
夢中になって、ぺろぺろと舐めてしまったが、ふとあることに気づいた。
「……まだ、いっぱいあるの?」
声に出すと、精霊たちは一斉にぴょんぴょんと跳ねて、あちこちを指差すように舞った。
「ふ~ん……つまり、まだあるんだね」
わたしはにやりと笑った。
……採り放題!




