71話 思う想い ~その手が求めるなら1~
帳簿に目を落としながら、筆を小さく走らせる。
文字を並べる手元は淡々としているのに、意識のどこかでは別の景色がちらついていた。
……今頃、あいつは家族と再会しているだろうな。
胸の奥に冷たい痛みが広がる。
引き裂かれた家族の痛み。
それを埋めるには、どれほどの時間と覚悟が必要なのか。
自分には到底想像もつかない。
けれど――あの幼子は決して挫けなかった。
自分を失いそうな状況でもなお、ルルーナは立ち上がり続けた。
私の心を救い、部下を守り、そして孤児にすら手を差し伸べた。
疑問は尽きない。
どうして、あの歳で……。
たった五歳。
それなのに、感情の切り替え、相手を見抜く眼差し、理解力。
どこをどう切り取っても、子供らしさだけでは説明できない。
思考は鋭く、言葉はよく練られ、状況を正確に把握する力を持っていた。
分析すればするほど答えは遠ざかり、結論など出やしない。
だが、一つだけははっきりしている。
彼女が私を救った――それは紛れもない事実だ。
小さな手に握られていたのは、ただの気まぐれではない。
自分に差し伸べられた善意。
誰にも縛られない純粋な意思。
この借りを返せるだろうか。
いや、返せなかったとしても――
……必要とされる限り、私はこの力を振るおう。
心の奥でそっと誓いを新たにしたそのとき、扉を叩く音が静寂を破った。
「アゼレア様。ルルーナ様と……エステラ様がお見えです」
執務机の上で筆を止める。
小さく息を整え、瞼を閉じてから答えた。
「……通しなさい」
◇ ◆ ◇
扉が静かに開き、先に小柄な影が顔を出す。
……なんでお前が様子を伺っているんだ。
黒髪が淡く光を受け、瞳は相変わらず真っ直ぐだった。
その後ろに、緊張に肩を強張らせた少女――エステラが控えていた。
「ご苦労。下がっていい」
案内のロエナを下がらせる。
静かに扉が閉じられ、執務室に残ったのは三人だけ。
途端に空気が張りつめる。
それなのに、ルルーナはためらいなく歩み寄り、机の前で足を止めた。
何も恐れない眼差しで、当然のように私と視線を合わせてくる。
……お前のそういうところだ。
対してエステラは小さく息を呑み、視線を落としたまま。
……これが妹を思って突き動かされる、まだ未熟な姉の姿か……さて、どう切り出すか。
沈黙を破ったのはエステラだった。
顔を上げることなく、机の前で深く頭を垂れる。
「……ごめんなさい。それと、ありがとうございました」
小さく震える声。
……この場で最初に発した言葉がそれか――悪くない。
「何に対して?」
わざと冷たく問い返す。
エステラの肩がぴくりと揺れ、唇が震えた。
「ルルーナも、アイナも……助けられなかった。あの時、私は……何もできなかった」
エステラは自分の無力を悔いている。
必死に絞り出す声は、見ていて胸が詰まるほどの不器用さが滲んでいた。
「確かに無力だったわね」
「……っ」
短い言葉に、エステラは強く目を閉じる。
わざと突き刺すように言った。
だが、本当に伝えたいのは――
「けれど、無力さを知ってなおも歩き出す者は、何より強い」
そう告げると、エステラがはっと顔を上げた。
エステラの瞳が揺れ、必死に言葉を探している。
その横でルルーナが笑みを浮かべて口を挟む。
「だから大丈夫だよ、お姉ちゃん。アゼレアは怖そうに見えるけど、ちゃんと見てくれてる人だから」
「おい……」
思わず眉をひそめる。
……本当にお前は、どうしてそうあっけらかんと真実を口にするんだ。
エステラの強張った表情が少し緩んだのを見て、追及する気は失せた。
だが、彼女は再び視線を落とし、唇を強く噛んでいた……。




