70話 その先へ ~私が立ち上がる理由5~
サンドレアムの東門。
見慣れた石の門を抜けると、風の匂いが変わる。
畑には青みを帯びた冬小麦。
土の色がところどころ顔を出し、春の準備が着々と進んでいるのが見て取れた。
荷台には麻袋と木箱。
私は毛布にくるまり、身を小さくして揺れに合わせて呼吸を整える。
商会の警備が左右に数名並び、先頭にはライアット。
視線だけで周囲の状況を確認していた。
無駄のない合図で、隊列が呼吸するみたいに伸び縮みする。
……すごいなぁ、父さん。
しばらく進むと、山道が始まった。
日陰の斜面には雪が残り、車輪が凍った轍を踏むたびに、シャリッと乾いた音がする。
木々の間を抜ける風は冷たいけれど、梢の先に柔らかな光。
遠くの沢の水音が、冬と春の境目を優しくなぞっていた。
ふいに前方からライアットの低い声がした。
「凍結だ。少し揺れるぞ」
「……はい」
身を低くすると、荷車が大きく一度だけ軋み、それからまた緩やかに進み出す。
雪解け水が細い筋になって道を横切り、陽にきらりと光った。
山道を抜けると景色がひらけた。
丘がゆるく連なり、葉の落ちた木々の間を小さな小川が蛇行している。
トバルへ続く道の両側には、青々とした冬小麦の畑が一面に広がっていた。
その奥には小さな民家の屋根。
煙突から立つ白い煙が、空の青に溶けていく。
行き交う隊商とすれ違うたび、御者同士が短く合図を交わす声が聞こえた。
そうして昼を過ぎた頃、目的の町――トバルの輪郭が現れる。
……ここがトバル。
低い石壁と見張り塔、遠くには風車も見える。
門の手前には検問の列。
私たちの荷馬車が止まると、ライアットが馬から降り、書状と印章を見せる。
兵士が一礼し、列はするすると前へと流れ、やがて門をくぐった。
レント商会の商隊が町へ入る。
石畳はサンドレアムよりも白く、白い筒状の建物は背が高い。
……あの白いのって倉庫?
通りの両側には問屋が肩を並べ、行き交う声は張りがあるのに不思議と秩序が保たれていた。
そんな中、緩い丘の上に貴族の邸の屋根が見えてきた。
……あそこにルルが。
荷馬車は商会の納入先をいくつか回り、控えを渡しながら荷を下ろす。
ぬか石鹸の箱が、次々に担ぎ出されていく。
洗濯板の山が軽くなるたび、心の奥でも何かがふっと軽くなる。
ここに来た意味が、ひとつひとつ形になるみたいだった。
「最後は、アゼレア様の邸だ」
ライアットの声に、肩がぴくっと跳ねる。
荷はもうほとんど残っていない。
胸の鼓動が速くなるのを、私は毛布の下でぎゅっと手を握ってやり過ごした。
……アゼレア。
所長から聞いたときは信じられなかった。
あれは私たちを助けるために、演じた芝居だろうと所長は言った。
でなければ、アイナに渡した黒曜石の説明がつかないと。
結果をみれば、その通りだった。
詳細はわからない。
でも、彼女がルルーナと孤児を守っていたのは事実だ。
……アゼレアにも謝らなくちゃ。
邸の前で荷馬車が止まる。
正面門は紋章以外の余計な飾りがなく、けれど真っ直ぐで、よく磨かれている。
それに、どこか空気が澄んでいる気さえする。
門番にライアットが名乗り、短い確認ののち、門が開いた。
「エステラ、ここからは走るな。ついて来い」
「うん」
荷台から降りる。
足の裏に石の冷たさを感じながら、ライアットに続く。
玄関扉が内へ開き、使用人が深く礼をした。
通された廊下は、よく知るサンドレアムの役所とは違う静けさ。
壁にかけられたランプの炎が、柔らかく揺れている。
角をひとつ曲がるたびに、胸の奥の熱が少しずつ温度を増した。
「こちらへ」
案内してくれたのは、若い侍女だ。
私を見ると、ほんの一瞬、表情がほどけた。
落ち着いた目で、どこか優しさを感じる。
扉の前で足が止まる。
「レント商会の方がお見えになりました」
ライアットが一歩下がり、視線で「行ってこい」と告げた。
喉がひくりと鳴る。
……ここに、ルルが……。
私は拳を小さく握って、扉に向き直る。
侍女が静かに扉を開いた。
「――お姉ちゃん?」
聞き慣れた声が、胸の中心に火を灯すみたいに広がった。
「ルルっ!」
次の瞬間、足が勝手に前へ出た。
小さな体が勢いよくぶつかってきて、私は両腕でしっかり抱きとめる。
……温かい。ちゃんとここにいる。
息を吸うたび、涙と笑いが同時にこみ上げてくる。
「来てくれたんだ」
「うん……うん、来たよ」
肩越しに、ライアットが目を細めて立っているのが見えた。
私はルルーナの髪をそっと撫で、耳元で小さく囁く。
「会いに来たよ――話したいこと、たくさんあるの」
ルルーナがこくりと頷き、ぎゅっと抱きしめ返してくる。
その温もりに目を閉じると、遠い山道の冷たさが、すっと溶けていった。




