70話 その先へ ~私が立ち上がる理由4~
屋敷を出ると、冬の冷たさが残る風の中に、微かに春の匂いが混じっていた。
雪解けの水を含んだ空気が頬を撫で、石畳にはうっすらと光が反射している。
馬車へ向かう途中、隣を歩くジークがふいに口を開いた。
「緊張されたでしょう」
「……っ!」
見透かされたようで思わず足を止める。
「怖かったです……」
小さく、けれど素直に答える。
ジークは目を細め、どこか優しく微笑んだ。
「我が主は、恐ろしくもあり……慈悲深くもある方です」
短い言葉だったが、不思議と胸の奥が温かくなる。
「はい……そうですね。厳しいけれど、道は示してくれました」
ジークは軽く頷き、続けた。
「指導する日取りが決まりましたら、ご連絡いたします」
「はい。よろしくお願いします」
私は深く頭を下げる。
再び歩き出した足取りは、先ほどよりも少し軽かった。
「どうぞ」
ジークが静かに馬車の扉を開けてくれる。
「……ありがとうございます」
私は小さく会釈をして踏み段を上がり、馬車に乗り込む。
座席に腰を下ろすと、背中にあった緊張が少しずつほどけていった。
ジークが軽く手綱を鳴らすと、馬車は午前の日差しの中をゆっくりと動き出す。
窓の外を眺めれば、サンドレアムの街並みがゆっくりと流れていく。
冬の名残りはまだ濃いけれど、軒先に干された洗濯物が春風に揺れていた。
やがて馬車が止まり、ジークが静かに扉を開けてくれた。
「……お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
小さく礼を告げ、私は踏み段を下りる。
玄関の扉が開き、ルーチェが迎えに出てきた。
私の顔をひと目見るなり、にこやかに微笑む。
「……おかえり」
その温かな声に、胸の奥に溜まっていたものがほどけ、私は思わず微笑んだ。
「ただいま、母さん」
いつものやり取りだったが、それだけで心が安らぐのを感じた。
◇ ◆ ◇
翌朝。
空気はきりりと冷たいのに、どこか柔らかな匂いが混じっている。
商会の店先ではルーチェが私の襟元を整え、首に薄いマフラーを巻いてくれた。
「冷えるからね。向こうに着くまで外さないのよ」
「うん。ありがとう、母さん」
荷馬車の影で荷の確認をしていたライアットが、こちらへ歩み寄る。
普段の穏やかな目つきから、仕事の厳しさに切り替わった。
「もう一度だけ言っておく。荷台で静かに。指示には従う。それが守れれば問題ない」
「はい」
頷くと、ライアットはほんの少し眉を緩めてから、商会の荷馬車へ視線を向けた。
中には木箱がいくつも積まれている。
側面にはレント商会の焼印。
蓋の隙間から、木の匂いとぬか石鹸のやさしい香りがふわりと漂ってくる。
店の角から、ノックスとアイナが駆けてきた。
ノックスは帳簿の束を脇に抱え、息を整えながら笑った。
「間に合った。ステラ、これは予備の目録。万が一の時に父さんへ渡して」
「了解。ありがと」
アイナは布袋をそっと差し出す。
焼き菓子が少しだけ入っているらしい。
「マルコのとこで作ったの。妹ちゃん――じゃなくて、ルルーナ様に。甘いもの、疲れた頭にいいらしいよ」
「ふふ、伝えるね。ありがとう、アイナ」
ノックスが軽く顎を上げ、目で「いっておいで」と告げる。
私は大きく息を吸い込んで、荷台の縁に手をかけた。
「出るぞ」
ライアットの声とともに、御者が手綱を鳴らす。
ゆっくりと車輪が転がりはじめ、家並みが後ろへ流れていく。
ルーチェが手を振り、ノックスとアイナも並んで見えなくなるまで手を振ってくれた。
……行ってくるよ。




