70話 その先へ ~私が立ち上がる理由2~
翌朝。
まだ家の空気がひんやりしているうちに、玄関を叩く音が響いた。
ルーチェが扉を開けると、背筋を伸ばしたジークの姿が見える。
深い青の瞳が、朝の光を受けてもなお、鋭さを失わない。
「おはようございます。本日は、エステラ様にお話がございます」
「まぁ……エステラに? 所長さんが何のご用かしら」
ルーチェは驚いたように首を傾げただけで、不安そうな色は浮かべなかった。
ルルーナを通して、所長の人柄を知っているからだろうか。
むしろ「なるほど」とでも言いたげに微笑んだ。
ルーチェが頷くと、私は急いで着替え、玄関へ向かう。
「準備はよろしいですか?」
ジークが私に顔を向けて言った。
「は、はい……」
私が頷くと、ジークは無言で一礼し、馬車へと導く。
家の前に停まっていたのは、貴族用の箱型馬車。
中へと足を踏み入れ、ふかふかの座席に腰を下ろす。
遮音の厚い扉が、ジークによって外の世界を切り離すように閉ざされた。
緊張に喉を鳴らしながらも、向かいにある小窓をそっと開ける。
御者台に座るジークの背中に、私は少しためらいながら声をかけた。
「ジークさん……小娘に様なんて、やっぱり変じゃないですか?」
ジークはわずかに首を動かし、静かな声を返す。
「主の客人に敬称を用いるのは当然のこと。年齢は関係ございません」
きっぱりとした言葉に、口をつぐむ。
胸の奥にむずがゆさは残るけれど、「……そんなものか」と小さく呟いて納得した。
馬車は静かに走り出すと、街並みを抜け、やがて石畳の整った通りへと入った。
左右には塀で囲まれた屋敷が並び、ここが貴族街だと一目で分かる。
市場の喧騒とはまるで違う、静かで張りつめた空気。
その中を進む馬車の揺れに合わせ、私は膝の上で手を固く組んでいた。
ほどなくして馬車が止まり、ジークが扉を開ける。
「どうぞ」
促され、私は小さく息を整えて馬車を降りた。
目の前にあるのは、以前にも足を運んだことのある屋敷。
外観は重厚でありながらも、どこか無駄を削ぎ落としたような静かな威厳を感じられる。
案内に従い中へ入る。
広すぎない廊下に落ち着いた絨毯が敷かれ、壁に掛けられた装飾品も最小限。
けれど一つひとつが上質で、質素でありながら気品が漂っていた。
飾り立てるのではなく、必要なものだけを選び抜いた空間――所長その人を映すように。
執務室の前でジークが足を止め、軽く二回ほど扉を叩いた。
少し間があって、「入れ」と所長の声がした。
ジークが私を見て軽く頷く。
「エステラです。失礼します」
胸の鼓動が強くなるのを感じながら、私は扉の向こうへと歩を進めた。
扉が静かに閉ざされると、部屋の空気が一層張りつめる。
「座りなさい」
「はい……」
執務机に腰を下ろした所長は、組んだ指を口元に添え、紫の瞳だけをこちらへ向けてくる。
「……まず確認する。昨日の件を、ライアット以外に話したか?」
低く抑えた声。
私は背筋を正し、首を横に振る。
「いいえ。父さん以外には……誰にも」
「そうか。それでいい」
所長はわずかに頷き、机の上を指先で軽く叩いた。
それだけで心臓が跳ねる。
「ここから先は、他言無用だ。君が関わったのは、結界内での魔物の出現――これは騎士団の上層部でしか認識していない問題だ」
その言葉に喉の奥がひりついた。
やはり、ただの森の騒動ではなかったのだ。
所長の眼差しが鋭さを増す。
「事の重大さを理解しなさい。そして余計な者を巻き込んではならん」
「……はい!」
思わず声が強くなる。
軽率な行動は許されない。
それは分かっている。
だからこそ、私は強く頷いた。
所長は視線を外さないまま、低く言葉を紡いだ。
「昨晩、魔物の死骸は確認した……頭部はライアットが破壊したのだろうが、後ろ脚の吹き飛び方は不自然だった」
紫の瞳が鋭さを増す。
「つまり――ライアット以外に、援護した者がいる。あとから合流したのではない。その場に、最初からいたな?」
その言葉に、私の呼吸が止まった。




