69話 自分にできること ~炎の道標1~
洞穴に足を踏み入れた途端に鼻を突いたのは、血と泥が混じった生温い悪臭。
むっとする熱気に似た空気が肌を撫で、喉の奥を焼くようにえぐってくる。
吐き気を堪えて口を押さえながら、私はライアットの背から目を逸らさず、闇の奥へと一歩踏み出した。
ふいに闇の奥で、骨を噛み砕くような音がした。
ぞわりと嫌な感覚が、背中をせり上がって来る。
「下がれっ!」
ライアットの腕が私を押し戻す。
次の瞬間――闇の奥から、黒い影が弾かれたように飛び出した。
腐敗臭と鉄錆の臭いを纏い、目は赤黒く濁っている。
四肢は膨れ上がり、毛並みはまだらに抜け落ち、ただれた皮膚の下で筋肉が脈打っていた。
「な、なに……これっ!?」
牛にも似ている。
だが大きさも形も歪んでいて、獣というより化け物。
異様な気配を纏った化け物が、洞穴の闇から牙を剥いて突っ込んできた。
「くっ――!」
ライアットが前に出て、その突進を正面から受け止める。
地響きのような衝撃が狭い洞穴に響き、岩肌がびりびりと震えた。
「ぬぅっ!」
全身の力で押し返し、大きく蹴り飛ばす。
獣の巨体が岩壁に叩きつけられ、土砂がぱらぱらと崩れ落ちた。
「下がるぞっ!」
短く叫ぶと、私はすぐに出口へと飛び退いた。
ライアットも必死に続く。
洞穴の中は狭すぎる。
ここで押し込まれれば逃げ場がない。
外に出た瞬間、ライアットの怒号が飛んだ。
「エステラ! 木に登れっ!! 低い枝でいい、身を隠せっ!」
「はいっ!」
すぐ脇の木へ駆け寄り、身体強化で幹を蹴る。
枝を掴み、ぐっと体を持ち上げて登る。
視界の下で、ライアットが一歩も退かずに化け物と相対していた。
黒ずんだ毛並み、濁った目。
腐敗臭を撒き散らしながら、そいつは牙を剥いてライアットに向かう。
「こいつは――鼻が死んでるな。匂いじゃなく、目で追ってる!」
ライアットが短く言い放つ。
その声音は冷静で、獣の異様さをものともしていなかった。
「わかった!」
枝の上から返事をする。
心臓は張り裂けそうなのに、ライアットの背中が不思議と恐怖を押しとどめてくれた。
私は木の上から矢を番えた。
だが、弦を引き絞る腕が震える。
視界に入る化け物はあまりに異様。
狙いをつけようとしても、心臓の鼓動に呼吸が乱される。
そのとき、ライアットの声が鋭く飛んだ。
「エステラ! 狙うなら後ろ足だ!」
「えっ?」
思わず目を見開く。
確かに、化け物は前へ突進するようにけり出し、背後ががら空きになっていた。
その一瞬を突けと言っているのだ。
「後ろ足の付け根だっ!」
ライアットの叫びに従い、矢じりをそこへ向ける。
震えは止まらない。
けれど、ライアットの声が導く。
「……火の神よ、猛る炎の如き力をっ!」
ピタリと息を止め狙いを定めると、一気に弦を引き絞り、渾身の矢を放つ。
風を裂いて飛んだ矢が、黒ずんだ毛皮を貫き、後ろ足の付け根に深く突き刺さった。
「グウウゥッ!」
化け物が唸り、地面を抉るように暴れ出す。
後ろ脚を蹴り上げ、土煙を上げる。
化け物は止まらない。
むしろ狂ったようにライアットへ迫る。
「これじゃ止まらねぇかっ!」
ライアットが吐き捨てるように言い、剣を構え直す。
その瞳は獣の動きを完全に読み切っていて、恐怖の色は一切ない。
剣と牙がぶつかり合い、火花のように空気が弾ける。
木の上からそれを見つめる私の目は、震えながらも必死にライアットの動きを追っていた。
どうすれば、この化け物を止められるのか。
どうすれば、自分も父のように戦えるのか。
答えを探すように、私はひたすら観察を続けた。
矢は確かに突き立った。
けれど、分厚い皮膚と異様に膨れた筋肉がそれを受け止める。
化け物は止まらない。
血が滲んでも、狂気に塗れた赤黒い瞳はますますギラついていた。
「……くっ」
矢筒を探る手が震える。
いくら射っても、あの皮膚は貫けないし、止まらない。
……じゃあ、どうすれば……考えろ。
今の自分にできることは――ただ、一矢に全てを込めることだけ。
「ここっ!!」
叫びと共に、全身全霊で弦を引き絞り、矢を放った。
その瞬間。
矢じりが眩く輝き、紅蓮の熱が奔った。
「えっ!?」
放たれたのは、ただの矢ではなかった。
灼熱が渦巻くように、炎が尾を引いて飛ぶ。
そのまま、化け物の後ろ脚を付け根ごと吹き飛ばした。
「ゴアアアアアアッ!!」
絶叫が木々を震わせる。
化け物がよろめき、巨体を支えきれず体勢を崩した。
その光景に、ライアットが口角を吊り上げる。
「――やるじゃねぇかっ!」
頭の位置が下がり、無防備に突き出された。
ライアットは深く息を吸い込み、全身の力を拳に集中しているように見える。
「俺もいいところ、見せねぇとなぁっ!!」
ライアットの身体強化。
その体が、ひと回り大きくなったようにさえ見える。
ライアットが一歩、地面を踏みしめると、土がズンッと沈んだ。
拳に宿る魔力が空気を震わせた次の瞬間――
耳をつんざく轟音。
化け物の頭部が粉砕され、血飛沫が散った。




