67話 笑い声 ~ようやく笑えた温かな場所4~
フェルトの家をあとにし、邸へ戻る。
馬車の中、窓の外に流れる景色をぼんやり眺めながら、わたしは口を開いた。
「アゼレアって……爺が苦手なんだね」
隣で腕を組んでいたアゼレアが、わずかに眉を動かす。
「別に苦手というわけでは……」
「はいはい」
軽く流すと、アゼレアは小さく咳払いをした。
「ただ、本当に厳しくて……何度か授業を抜け出したことはあるわ」
「えっ!」
思わず目を丸くした。
信じられない。
あのアゼレアが授業から逃げ出すなんて。
……あれ……? もしかして人選、間違えた?
内心でそんな疑念を抱えながら、わたしは邸の離れへ向かった。
離れに入ると、女中たちが子供たちに掃除や洗濯を教えている最中だった。
小さな手で雑巾を絞る姿や、ぎこちなく板の床を磨く姿。
その一生懸命さに、自然と目を細める。
「は~い、集まって!」
声をかけると、子供たちが一斉にこちらを向いた。
「明日から授業が始まります。字や数を学ぶんです」
わたしの明るい声とは反対に、不安そうなざわめきが広がる。
授業という言葉が、子供たちにとって遠いものだったのだろう。
「大丈夫。アゼレアの先生だった人が教えてくれるのよ」
「えっ……アゼレア様の?」
「そう!」
わたしが胸を張ると、隣でアゼレアが慌てて口を挟む。
「おい、お前まで余計なことを言うな」
しかし、子供たちの目はすでにキラキラと輝いていた。
「ねぇ! アゼレア様みたいになれる?」
アゼレアが腰をかがめて、子供に目線を合わせる。
「それは知識のことか? それとも権力のことか?」
「う~ん……けんりょくってなに?」
孤児相手にしっかりと応えるアゼレアは、やはり普通の貴族とは違う気がした。
いや、もしかしたら、これが本当の貴族の姿なのかもしれない。
「偉い人のようなものだ」
「じゃあ、なりたい!」
その答えに、アゼレアはふっと笑みを浮かべ、子供たちを見渡した。
「そうか。だが、このちっちゃい方が偉いのだぞ。なんなら、町で一番偉い。こうなりたいか?」
アゼレアの指がぴっとわたしを指す。
「えっ、このちっちゃい子が……えらいの?」
「ああ、偉いぞ。私よりもな」
子供たちは一瞬ぽかんとした後、首を傾げた。
「……う~ん、やっぱり難しそうだからいいや」
その瞬間、場の空気が一気に和んだ。
アゼレアが額を押さえ、わたしはがくりと肩を落とした。
◇ ◆ ◇
その夜。
執務室で帳簿を片付けたあと、わたしは机に頬を乗せたままぼそりと呟いた。
「……どうせ、わたしには威厳なんてないし」
すかさず隣のアゼレアが鼻を鳴らした。
「そうね。たしかに、今のその姿じゃ威厳は感じないわ」
そう言って、アゼレアは軽く肩をすくめた。
「うっ……」
思わず顔を上げる。
その姿にアゼレアは、おかしそうに肩を揺らした。
「そんなもの、後から勝手についてくるものよ」
「……そうなの?」
「そう。それにお前と話していると、五歳児だという事実を忘れそうになるわ」
……あ、やばっ!
焦った顔を見られていないかと横目で伺うが、アゼレアは気にも留めず続けた。
「お前がやっているのは、貴族の政務官ですら手を焼く内容。それを淡々とこなしているのよ」
「……そ~なの?」
「なによ、無自覚?」
……結構、わたしってすごいのかな。
「忙しいなぁとしか思ってないけど」
「それはそうよ。言ったでしょ。一生働かせると。賭けは私の勝ちなんだから」
アゼレアの声音は楽しそうだ。
わたしをからかっているんだろう。
「でも、わたしが忙しいと、アゼレアの方がもっと忙しくなるんじゃない?」
負けじと言い返すが、それも想定済みだったようだ。
「そうでもないわ。そうならないように先回りして、お前にやらせればいい」
……それはズルいよ。
「なにそれ!?」
わたしが口を尖らせると、二人で顔を見合わせ笑いが漏れる。
夜の執務室に、わたしたち二人の柔らかな笑い声が広がっていった。
◇ ◆ ◇
指導を依頼した翌朝。
わたしはフェルトの授業を見学するため、邸の離れへ向かった。
机の前に座らされた子供たちが、ぎこちなく石板に文字をなぞっている。
フェルトの指す、文字に合わせて「いち、に、さん」と声を合わせ、数字を唱える子供たち。
その声に真剣に耳を傾け、失敗すれば頬を膨らませ、成功すれば笑顔を交わす。
……これなら、大丈夫。きっと未来に繋がっていける。
その光景に胸の奥が温かくなった。
窓から差し込む朝の光に、子供たちの笑顔が照らされていた。
そこには、確かな希望が芽吹いている。
ふわりと春を告げる風が頬を撫で、アゼレアがわたしの肩を優しく叩く。
「ほら、行くぞ」
「うん」
まだまだ、片付ける仕事は山ほどある。
でも、一歩ずつ、確実に前へ進んでる。
この温かい気持ちを胸に秘め、今日もまた、書類とにらめっこの始まりだ。
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