52話 命懸けの新生活 ~整理してみよう1~
客室の窓に吊るされた薄布のカーテンが、夜風に揺れた。
町の喧騒も遠ざかり、トバルはすでに静寂に包まれている。
わたしはふかふかの寝台の端に腰掛け、落ち着かない心をどうにか鎮めようと、手を膝の上で組んでいた。
扉が軽く叩かれた。
……二回だから、侍女かな?
「どうぞ」
「失礼いたします。アゼレア様がお食事の席へとお呼びです」
声の主は先程とは違う侍女だった。
控えめで丁寧な口ぶりだが、その裏に緊張が滲んでいるように聞こえた。
……こんな時間に?
「……はい、すぐに」
わたしは頷き、与えられたドレスの裾を整える。
豪奢すぎて歩きづらいけれど、逆らえるはずもない。
小さく深呼吸をして、夜の廊下へと足を踏み出した。
フレデリカとのお茶会が役に立つ日がくるとは、こんな状況でなければ喜べたのだが。
……マナー講義受けてて助かったよ。
通されたのは、広くも狭くもない応接間。
壁に吊るされた燭台が金の光を揺らめかせ、長卓の中央には果物と軽食、そして赤いワインが並んでいた。
すでにアゼレアの姿はそこにあった。
白磁のような横顔には笑みが浮かんでいたが、その笑みは人を安心させるものではない。
わたしは、自然と服の袖をきゅっと握り込んでいた。
「お座りなさい、ルルーナ。長旅で疲れたでしょう。せめて、今夜は少しでも楽しんで」
「……はい。ありがとうございます」
勧められるままに椅子に座ると、隣に控えていた侍女たちが器用に皿を並べていく。
わたしは、口元に作り笑いを貼り付ける。
侍女の様子を横目で見ながら、心の中で祈るように言葉を繰り返した。
……平常心。ここで怯えを見せてはだめ。
侍女の一人が、ワインの瓶を持ち上げた瞬間――
ぽたり。
ほんの一滴。
わずかな手の震えが、赤い液体を卓布の端に落とす。
誰もが見逃すような些細な失敗だった。
「……あら」
アゼレアが小さく声をあげた。
その声音は柔らかいのに、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせた。
「宴席を汚すとは、不快ね」
ワインを零した侍女が、わなわなと震えながら膝を折る。
「も、申し訳ございません……」
けれど、許しを乞う声は冷ややかな微笑で遮られた。
「何度目かしら? それに、子供にワインを飲ませる気? その程度の気配りもできぬのなら、この邸には不要よ」
その一言で、護衛の兵が左右から侍女の腕を掴んだ。
血の気が引いた顔のまま、声もなく引きずられていく。
残されたのは、赤いシミのついた卓布と底知れぬ静寂。
喉がひりつき、飲み込んだ唾がやけに重たく響いた。
……いまの……不要って……。
頭の中で言葉が回る。
怒鳴りもしない。
手を上げもしない。
ただ一言で、人の生死が決まる。
わたしは冷え切った指先を握りしめ、どうにか笑顔を保つ。
……わかってる。ここでは、何も……顔に出しちゃいけない。
「ルルーナ様。申し訳ございません。こちらはブドウの果実水になります」
別の侍女がわたしの杯に果実水を注ぐ。
けれど、赤い液体の香りは血の匂いにしか思えず、結局、口をつけることはできなかった。
その後、形式ばった宴は短く終わり、わたしは再び客室へと戻された。
扉を閉めた途端、胸の奥に押し込んでいたモノがどっと溢れ出す。
膝の力が抜けて、思わず床にへたり込んだ。
……あれはヤバい、貴族ってみんなこうなの……?
貴族社会の講義は、まだ初歩の段階だ。
注意事項程度しか受けていない。
わたしが知っている貴族といえば、所長にジーク、それとフレデリカぐらい。
厳しいといえど、所長でもあのような罰は与えないだろうし、フレデリカも同様に思う。
わたしが見ているアゼレアは、最悪の部類の貴族ということだろうか。
一般的な貴族はこうではない。
できれば、そうであって欲しいと願う。
暗がりの中、寝台の縁に腰を下ろしたとき、窓辺でふわりと光が揺れた。
小さな妖精たちがちらちらと現れては、心配そうにこちらを見ている。
「……ありがと。大丈夫だよ。わたし、平気だから」
そう囁くと、まだ不安げに揺れながらも、少しだけ落ち着きを取り戻した。
こうして、アゼレア邸での最初の夜は、不気味な静けさの中で過ぎていった。




