51話 冷静に ~鳥籠の夜2~
静寂の中でも、わたしは肩の力を抜かない。
所長の講義を受けておいて、本当によかったとしみじみ思う。
――「そんな忍者みたいな真似はできません」
――「忍者とはなんだ? まったく、事が起きてからでは遅いのだぞ」
所長の呆れた顔を思い出す。
……はぁ、こんなに早く実践するとは思わなかったよ。
まずは窓際へ移動した。
椅子に乗り、格子の継ぎ目、蝶番、鍵の引っかかりを指先でそっと確かめる。
……うっ、これは固い。最低でも工具が必要ね。
壁に耳を当て、廊下を行き交う足音の間隔を数える。
ついでに鈴を引く位置も確認する。
……食事はすぐに来るはず。毒見は……どうお願いしよう?
あとは夜の交代の時間を見て、覚えればいい。
……ん? 誰か来た。
扉の向こうで、わずかに台車の音がした。
扉が二度、軽く叩かれて扉が開く。
「失礼いたします」
侍女長とは違い、柔らかい雰囲気をまとった侍女が食事を運んできた。
わたしと目が合うと、にこりと微笑み「どうぞ」と食事を並べていく。
盆に乗せられたスープと白いパン、のびやかな香りのハーブティー。
わたしは両手を胸元で揃え、丁寧に微笑む。
「……あの、辛くないか、念のため味を見ていただけますか?」
侍女は目を瞬いた。
けれど、すぐに小さく頷いた。
「承知しました」
匙で一口、何の変化もない。
彼女の喉が上下し、表情も変わらず。
……大丈夫……たぶん。
わたしはようやく椅子に腰を下ろし、温かい湯気に顔を近づけた。
すすると、野菜の甘みが舌に広がって、体の芯にじわりと落ちていく。
……美味しい……こんな時に、なんだけど。
片付けが終わると、侍女は台車とともに退室した。
わたしは一息つくと、テーブルの端に置かれていた小さな紙片に気づいた。
折り畳まれた紙を広げると、指先がぴたりと止まる。
綺麗な筆跡で、短い言葉が記されていた――泣くなら、夜に。
……わたしのこと、見てる? う~ん……ちがう。
たぶんだが、ここに来た子供への言葉だろう。
泣き声は隣に響く。
夜なら隠せると。
紙片を折りたたみ、腰の小袋にしまう。
そして椅子から立ち上がると、鏡の前で自分の顔を見た。
五歳の子供の顔。
……ひっどい顔ね……でも大丈夫。
泣かない。
今は、覚える。
ここで何が起きるのか。
誰が指示して、誰が動いているのか。
自分でもびっくりするくらい冷静だ。
所長の教えもあるが、前回と大きく違うのは、わたしの周りにいる精霊たち。
少なくとも、精霊たちがいてくれるおかげで寂しさはない。
……あの格子の窓って開けられる?
駄目もとで聞いてみたが、精霊たちは首を横に振っている。
……だよねぇ。
わたしは再び観察と記録に戻る。
扉の向こうから、ゆっくりと近づく足音がする。
そして止まった。
ノックは一度だけ。
……侍女じゃない。
「どうぞ」
扉が開き、廊下の光が差し込む。
そこにはアゼレアが立っていた。
琥珀の瞳は、光の角度で金にも茶にも見える。
少女のはずなのに、子供に見える瞬間と、底知れない大人に見える瞬間が交互に訪れる。
「部屋は気に入った?」
扇の影で表情は読ませない。
わたしは微笑み、深く頷く。
「……はい。とても綺麗です」
「そう……あなたは賢いわね。名は?」
アゼレアは足音もなく近づいて、わたしの視線の高さに合わせて腰を落とす。
「ルルーナです」
「……怖いのに表に出さない。礼儀は守る。お願いの仕方も嫌いじゃない」
アゼレアは柔らかく笑うと、扇で唇を隠した。
「あなたが嘘をついていることくらい、息をするようにわかるのよ」
喉がひゅっと鳴る。
「――っ!!」
……この子、所長級なのっ!?
でも、質が決定的に違う。
この目は、人を選別するような目だ。
「安心しなさい。あなたを傷つけるつもりはないわ……今はね」
アゼレアは立ち上がり、踵を返す。
「飽きるまでは、門は開かない。鳥籠は花を飾るためにあるの」
わたしは、アゼレアが去った後の扉をしばらく見つめ続けた。
……飽きるまでは、か。こっちが飽きる前に、出て行ってあげるわ。
窓の外、遠くに広がる畑が月明かりに照らされている。
胸に手を当て、わたしは息を整えた。
「……だいじょうぶ」
小さく呟き、わたしは机に手帳を広げる。
字を崩さず、簡潔に。
所長に見せるように。
足音の数、部屋の配置、扉の重さ、鍵穴の形。
扇の仄かな香り。
侍女の癖。
そして、アゼレアの言葉。
深い夜が来る。
……泣くなら夜に、ねぇ。
でも、泣く時間があるなら覚える。
今はそれが、わたしにできる一番の抵抗。




