51話 冷静に ~鳥籠の夜1~
しばらくして、馬車の車輪が石畳へ乗り上げた。
都市の中心部へ近づいているのだろうか。
風に揺られる麦の波はいつの間にか背後へ流れ、代わりに低い城壁と、白い大きな風車が見えてくる。
道の脇に焚かれた篝火が、粉挽きや倉庫群、並んだ円筒の穀倉を照らしていた。
……ここが、農業都市トバルなの? ゆっくり進んでるように見えて、けっこうな速度だったのね。
「門は開けておきなさい」
アゼレアが無駄のない声で告げた。
門の衛兵たちは、彼女の姿を確認した瞬間、慌てて姿勢を整え槍を立て直して敬礼する。
「アゼレア様、ご帰還!」
呼び声が門楼の上へ駆け上がって、喧騒がぴたりと止んだ。
やはり、権力を持った人物らしい。
それも、ここでは誰もが道をあけるほどに。
……権力者。もしかして、相当な貴族?
これは本気でまずくなってきた。
途中で助けがくるなんて、甘い考えは捨てなくちゃいけない。
平民が攫われた程度で、騎士団も貴族も動かない。
……冷静に……慌てないで、まずは落ち着くのよ。
わたしは、すっと視線を落とす。
表情を動かさず、所長の言葉を思い出す。
――「知らぬ土地では、まず匂いと音を覚えよ。顔を上げるのは、出口を見つける時だけでよい」
鼻をくすぐるのは粉と油の匂い。
遠くで籠を担いで走る人の足音。
矢羽根が風に擦れる乾いた音。
……覚えろ、わたし。
馬車はそのまま大通りから少し外れ、ゆるやかに高台へ上っていく。
そこに、白い壁と深い緑の庭を持つ大きな邸があった。
鉄の門には紋章が見える。
……ツツジ? ……この世界では別の名前かも。
門が内側へ滑らかに開く。
中庭は整えられ、砂利の道に余計な一粒も見当たらない。
焚いた炎の光を受けた窓ガラスは丁寧に磨かれていて、歩く従者たちの影は規則正しく伸びていた。
アゼレアは扇を軽く傾けただけで、誰もがすっと頭を垂れた。
ここでは、彼女の一挙手一投足が合図になる。
馬車が玄関前で止まると、執事らしき年配の男が深く一礼した。
「ご帰還、心よりお待ち申し上げておりました」
「報告は後よ。先に、この子の部屋の用意を」
扇の先が、わたしを示す。
わたしは小さく息を呑んだ。
それは、閉じ込めるという意味かもしれない。
……でも、今は観察優先。
廊下へ足を踏み入れると、磨かれた床に靴音が澄んで響く。
壁には油絵。
果樹と収穫の風景、銀の皿に盛られた黒い果実。
すれ違う女中たちは、わたしを一瞥してからすぐに目を伏せる。
躾が徹底している。
フレデリカは言っていた。
視線を無駄に動かさないのは、良い屋敷の証拠だと。
案内する侍女の足取りは一定。
角ごとに立番。
出入口は少ない。
……窓は……格子。簡単には外へ出られない、か。
「こちらへ」
先導するのは、侍女長と思われる女性。
首筋までぴっちりと留めた黒の制服、動作は控えめで隙がない。
「身の回りは、私どもがいたします。ご用の際は紐を引いて鈴を鳴らしてください」
案内されたのは二階の角部屋だった。
小さな机と椅子、ふかふかに見える寝台。
月の光が差し込む窓に、床には花模様の織物。
美しく整っている。
だからこそ、余計に息苦しい。
……ああ、鳥籠みたい。これは逃げ道がないね。
「……食事を用意させます」
侍女長が燭台に火を灯し、一礼して去ろうとしたとき、わたしは慌てて口を開いた。
「あの、すみません。お手を煩わせてしまって」
言いながら、声が裏返りそうになる。
声が震えないように、おなかにぐっと力を入れた。
「構いません。ここでは、アゼレア様の言葉が最優先です」
そう言い残して、扉は音もなく閉じられた。




