50話 絶望に抗う ~小さな勇気3~
私は震えながら、倒れたエステラの手を必死に握りしめていた。
「この子たちには……そうね、余計なことは忘れてもらいましょう。ダズマ」
「承知しました」
アゼレアの声が耳に届いた瞬間、私はぞっとした。
ダズマがこちらに一歩、また一歩と近づいてくる。
……何をする気なの?
その指には、淡い光を宿した指輪が輝いていた。
ダズマが手のひらを動かすたび、視界が揺れる。
「……いや……エステラ……」
「……な、なんなの……これ……」
二度、三度……そして、四度目。
何かを必死に掴もうとしても、思考が霧の中に沈んでいった。
隣のエステラの声も遠ざかっていく。
けれど、不思議なことに、雨音が頭の中で静かに響く。
その一滴、一滴が、すぅっと霧を晴らしていく。
私の胸の奥でも、かすかな温もりが灯っていた。
小さな光が脈打つみたいに、私を支えてくれる。
そのおかげで、完全に沈むことはなかった。
そんな私を、アゼレアがふと見やった。
彼女はほんのわずかに目を細め、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「……ふふ、なかなか勇気があるのね。嫌いじゃないわ」
低く響くその声。
次の瞬間、ひらりと私の足元に何かが転がってきた。
……金貨?
陽の光を受けてきらりと輝く、一枚の金貨。
朧げな意識の中、拾い上げると、手のひらに冷たい感触が伝わる。
それが何なのかを問う暇もなく、アゼレアは振り返り、翻る裾を揺らして言った。
「よろしい。あとは任せるわ」
それだけ告げると、彼女は妹ちゃんを連れ、優雅に去っていった。
夕暮れの光に、その背は妙に長く影を伸ばしていた。
ダズマが鼻を鳴らし、わたしたちを見下ろしながら言った。
「あの御方の気紛れに感謝するんだな、小娘」
徐々にダズマの足音が遠ざかる。
ガタリと軋む車輪の音が、頭の奥で鈍く反響していた。
……気紛れで見逃された。
気づけば立ち上がっていた。
けれど何も考えられず、ただぼんやりと立ち尽くす。
時間の感覚も曖昧になり、あったはずの恐怖すら霧に覆われていた。
「……ふう、やれやれ。なんて無茶を」
声が聞こえた。
次に肩に触れられて、はっとする。
ぼやけた視界に映ったのは、眼鏡の奥で光る瞳。
見慣れた顔――役人のトランだった。
「二人とも、もう大丈夫ですよ。寿命が縮みましたよ……さて、どう報告したものか……って、お、おいっ」
その声に、不思議と胸がほどけていく。
安心感に包まれ、私はそのまま意識を手放した。
◇ ◆ ◇
ぽたり、ぽたりと音がする。
……雨? ……ちがう、私は……ん? 誰かの声がする。
「……でもっ!」
「追うのは駄目だ。相手は貴族だ。嬢ちゃんが身代わりになった意味を考えろ! あのままじゃ、二人とも死んでたぞっ!!」
エステラを止めるトランの怒声が聞こえた。
どれくらいこうしていたんだろう。
私が目を覚ましたとき、頭の霧はすっかり晴れていた。
あの時の出来事も鮮明に憶えている。
アゼレアの冷たい瞳。
エステラを吹き飛ばした力や、妹ちゃんの凛とした声も。
そして、あの金貨。
いや、幻覚でも見ていたのだろう。
私が握っていたのは金貨ではなく、小さな黒い石だった。
……金貨だったような? どういうこと?
なぜ彼女がそんなものを私に渡したのか、理由なんて分からない。
戯れの延長だろうか……。
でも、これだけは確かだ。
あの目を忘れることなんて、絶対にできない。
妹ちゃんを取り返さないと。
――「絶対、諦めないで」
……うん。妹ちゃん、もう、諦めないよ。
あの時、全てを投げ出して、街から逃げていたら……。
きっと、後悔で押し潰されていたかもしれない。
だから、決めた。
もう、諦めないって。
……妹ちゃんを助けることができる人は……。
頭に浮かぶのは、貴族でもある、あの人しかいない。
訪ねるのは怖いけど、逃げている場合じゃない。
私は体を起こし、エステラとトランの会話に割って入る。
「トランさん、所長に会わせてもらえませんか?」
力になれるかは、わからない。
でも……今は伝えなくちゃ。
今の気持ちを忘れないように……。
私は黒い石と一緒に、ぐっと拳を握り込んだ。




