48話 幽霊商人 ~影を記録する3~
倉庫街を離れると、途端に空気が軽くなったように感じる。
日は高いはずなのに、あの場所は昼も夜もないみたいで、喉がひりつくほど息苦しかった。
大通りに出て馬車を停めた辺りまで戻ってくると、ようやく胸の奥に溜めていた息をそっと吐き出した。
「さて……」
馬車に乗り込むと、所長が口を開いた。
「先ほどの観察を述べよ」
その低い声に、わたしは姿勢を正す。
「はい。ええと、あの行商風の男は……会話の区切りごとに、右手をひらりと見せていました。三度、その後に間をおいて四度目。相手の反応は、頷きが深くなるか、笑みが浮かぶか、でした」
言葉にしてみると、声がほんの少し震えているのが分かる。
あの笑顔を思い出すだけで、全身に寒気が走った。
「視線の動きはどうだ?」
「……相手の男たちは、合図が出るまで相手を見ずにいました。目が眠っているみたいで……でも、動きはしっかりしていました」
「ふむ」
所長は、わたしの答えに短い肯定だけを返す。
褒められてはいないけれど、訂正もされない。
……間違ってはいない……はず。
隣に座るトランが口を開いた。
「しかし、あれは……記録が曖昧になるのも当然ですね。精神に作用する道具を使っていると見て間違いなさそうです」
「だが、確証はまだない」
所長の声が鋭く切り込むように響く。
「推測で糾弾すれば、こちらが立場を失う。泳がせる必要がある」
泳がせる――また、その言葉。
小魚を網に掛けても、大きな魚は逃げる。
だから網の外で泳がせ続ける。
……でも、その間に誰かが犠牲になったら。
喉の奥に、チクリと小さな棘のようなものが刺さる。
けれど、それを言葉にしてはいけないと分かってる。
わたしの役目は、焦ることではなく、記録すること。
「トラン、倉庫街の出入り記録を今日の荷車だけでなく、闇の月まで遡り、抜き出して比較しろ」
「かしこまりました」
「ルルーナ、君は今日の観察をすべて書き出せ。細部を忘れるな。手の動きの間隔、頷きの回数、荷車の幌にあった文字のかすれ方――些末に見えるものほど重要になる」
「はい、所長」
……些末に見えるものほど重要。
前に講義でそう言われたときは、どこか教訓めいた響きにしか聞こえなかった。
でも、今は違う。
あの場で見た光景は、言葉にできない薄気味悪さと一緒に、たしかに網の結び目になる。
わたしは、外套の袖をきゅっと握りしめた。
……忘れない。絶対に。あの光も、笑みも、幌の文字も。
小さな結び目を増やして、大きな網を張る。
大きな網を張るなら、結び目は小さいほうが強いはずだ。
……なら、より強固に……ほどけないように。
空はもう、雲を散らして青さを取り戻していた。
けれど倉庫街で感じた重さは、まだ胸の奥に残っている。
わたしはそれを抱えたまま、馬車から見える空を見続けた。




