48話 幽霊商人 ~影を記録する4~
講義室に戻ると、外の喧騒がまるで嘘のように静まり返っていた。
分厚い石壁に背の高い窓。
ひんやりとした空気に満ちていて、背筋が自然と伸びる。
「すぐに記録を始めよ」
所長の指示に従い、わたしは机に腰を下ろす。
筆と紙を前にすると、喉がごくりと鳴った。
公式な調査報告書だ。
これを書くときは、普段使わない高級な筆を使う。
深呼吸をひとつ。
筆先を整えて、紙の上に文字を落とす。
「……倉庫街にて観察。行商風の男の仕草について。取引相手に対し、右手を三度、一定の間隔で見せ、その後に四度目。合図後、相手は頷く、または笑みを浮かべる……」
書き記していくにつれ、トクントクンと心臓の鼓動が速まっていく。
あの妙な空気と笑み。
目を閉じると、重苦しい倉庫の匂いまで思い出してしまう。
「止めるな」
背後から静かな所長の声がする。
「思い出すのが辛くとも、書き切らねばならぬ。曖昧さは敵の庇護となる」
「……はい」
筆を持つ手に力を込め直す。
「荷車の幌……ええと、文字は……トバ……。いえ、それ以上ははっきり読めませんでした。二文字で途切れていて……」
そう記しながら、わたしは筆を止め、そっと振り返る。
「所長、この記録は不完全でしょうか」
所長はわずかに目を細めた。
「不完全であろうとも、書き留めた事実が重要だ。確証は後から積み重ねればよい……トバで始まる町は、周辺ではひとつだ」
「ひとつ、ですか?」
……だとすると、東のトバルかな。
「トバル。東の町だ。君が見た二文字は、それを指す可能性が高い」
……やっぱり!
「……書き加えます。トバの二文字を確認。完全な地名は不明。ただし、トバルである可能性が高い」
紙にそう記したとき、所長が軽く頷いた。
「記録とは事実を記すものであり、推測は分けて明記することだ。その区別を誤るな」
「はい……」
筆跡の残る紙を見つめながら、わたしは小さく拳を握った。
厳しい教えだが、何もできなかったわたしが、着実に一歩ずつ前進しているんだと思うと、自信になる。
ふと所長は机に片手を置き、わたしが書いた紙面をじっと見下ろしていた。
「しかし、トバルか。偶然にしては出来すぎている」
「出来すぎている、とは?」
思わず問い返す。
「確認された毒の流通。正体不明の商人を雇い、禁制の魔道具まで使う資金力と影響力。考えれば出所は限られる」
「――っ!」
そこまで言われれば、わたしでも何となく察することができた。
体がぞくりと震え、筆を握る手に汗が滲む。
「だが、記録せよルルーナ。これはあくまで推測だ」
所長の声は、いつも通り冷静そのもの。
まるで動じてない。
……権力のある人物が、裏であの商人を動かしてる可能性。
心の中でつぶやいた途端、エステラとアイナの顔が浮かんだ。
……二人とも、大丈夫なのかな。
記録も終わり、あとは帰って休めと言われた。
緊張で張りつめていた体の力が少しずつ抜けていく。
でも、この変な気持ち。
不安なのか、焦りなのか。
自分でもよくわからない。
それでも――家に帰れば、きっといつもの夜が待っている。




