48話 幽霊商人 ~影を記録する2~
ここで声を出しちゃだめだ。
あの男に逃げられてしまう。
「軽挙は禁物だ」
所長の眼差しが、一瞬だけエステラたちの陰に触れ、すぐ戻る。
今できることは、じっと見ることだけ。
動けば、エステラたちにも最悪の結果を招きかねない。
「彼女らは自分の間合いを知っている。見失うな……追うのはそちらではない」
所長の言葉に視線を戻し、男たちを観察する。
話し合いが終わったのか、行商風の男が頷き、包みを鞄にしまった。
相手の男たちは、代わりに紙片のようなものを受け取っている。
……証文かな?
男たちは紙片を受け取ると、懐にぐしゃりと押し込んだ。
……随分と扱いが雑ね。
男たちが体を向けた先に荷車が一台、通りの端で待っていた。
幌の縁が擦れて文字がかすれ、最初の二文字だけが辛うじて読める。
……トバ? 地名? 取引先? いえ、今は覚えておくだけ。
相手のひとりが、ふらりとよろめく。
行商風の男は自然な仕草で肩を支え、耳元で短く囁き、また右手をひらり。
相手の目がふっと和らぎ、口元がにやつく。
嬉しそうなのにどこか空っぽな笑みだ。
わたしには、それらが不気味に見えてしょうがない。
「十分だ。まだ動くな」
行商風の男が荷車へ向けて歩き出し、角を曲がった。
それを追うように、エステラとアイナが少し遅れて動き出した。
ちらりとこちらへ振り向いた精霊たちが、両手で大きな丸を作ってみせた。
……お願い、無茶はしないで……二人をお願いね。
所長の指が、わたしの手から外套の裾へと移り、軽く一度つまんで離れる。
……ふぅ、合図だ。
わたしたちは、その場で追跡はしなかった。
許可の問題ではなく、所長は泳がせると決めていたからだ。
「トラン、出入りの記録を洗え。今日この時間に出た荷車、車輪の幅、幌の色、御者の顔つき……全てだ」
「承知しました」
小魚をすくっても鍋は満たせない。
網の端を掴んだ手を離して、もっと大きいものを獲る。
講義で聞いた言葉が、今さらのように頭に響く。
行商風の男の姿は、ほどなく倉庫街の向こうに消えた。
エステラたちも、路地の影に溶けて見えなくなる。
残ったのは油の匂いと、あの男たちの空っぽな笑みの残像だけ。
「引き上げる。今日の収穫は少なくない」
所長が踵を返し、わたしたちも静かに後に続く。
……見ただけ……けれど。
瞼の裏に、先程の光景が焼き付いている。
眠たげな目。
遅れる頷き。
言葉よりも確かな、合図の反復。
そして、奇妙な指先の光。
これは偶然じゃない。
何かがある。
「顔を上げなさい」
そう言われて、顔を上げる。
……わたしにはまだわからないけど、所長なら……。
「忘れるな。今、必要なのは焦りではない。正確さだ」
「……はい」
わたしは一度だけ深呼吸をして、倉庫街の重たい匂いを胸の奥に押し込んだ。
帰ったら、今見た順序をすべて書き出す。
手の合図の数、間合い、相手の足の運び、幌の縁のかすれた文字。
……忘れちゃいけない。




