43話 小さな調査官 ~踏み込んだ先に1~
脳裏にあの光景が蘇る。
忘れもしない誘拐事件の日。
洗濯場からの帰り道。
足を滑らせ、危うく転びかけたわたしを抱えて助けてくれた人。
そして、持っていたトマトを「お嬢ちゃんの服も少し汚しちまったな」と、わたしにくれた人だ。
あの出来事で石鹸の秘密を隠そうとして、逆に色々と所長に追及されたんだ。
それも重なって、今は余計に憶えている。
声に出そうとすると、唇がかすかに震える。
「……たぶん、知ってる人です……洗濯場で……トマトをくれた……」
自分でもわかるぐらい気落ちした声だった。
わたしの声を聞いたトランは、少し驚いたようにこちらを見たが、何も言わず目を伏せた。
この寒さのせいで、腐敗がほとんど進行していない状態だったのだろう。
痩せこけた顔は血の気を失い、唇は紫色に変色している。
その顔には、苦しみの跡がはっきりとわかるほど残っていた。
「近所の聞き込みによると、体調を崩してから数日で亡くなったらしい。高熱、咳、全身のだるさ……記録にはそうある。通報があったのが最近で、死亡した正確な日付はわからない。」
トランが感情のない声で、手元の書き付けを読み上げる。
この区画では、人が亡くなるのが日常茶飯事なのだろうか。
亡くなったのは知っていても、最近まで通報がなかったなんて……。
わたしは毛布をそっと元に戻し、深く息を吐いた。
……大丈夫……怖さはあるけど平常心だ。
「ふぅ……」
改めて周囲を見渡すと、部屋は質素だった。
干からびたパン切れ、洗い桶、そして棚の上に空き瓶が数本並んでいた。
トランを横目で見れば、机の上の散らばった雑紙を一枚一枚丁寧に確認している。
わたしは取り出した魔石の色を確認する。
こちらは変化なし。
……病気じゃない?
ふと、部屋の隅に置かれた大きな布袋が目に留まった。
なぜなら、集まってきた様々な精霊たちが揃って指を差していたからだ。
「トランさん、これ見ても大丈夫ですか?」
「ん? ああ、大丈夫だろう。何か気になったかい?」
袋の口が半分開いていて、中には傷んだトマト。
……色がおかしい。
皮はまだらに黒ずみ、柔らかく溶けかけている。
腐敗特有の匂いの奥に、金属のような刺す臭気が混じっていた。
袋の底には、赤黒いどろどろした液体が溜まっている。
トランにお願いして袋を横にずらしてもらうと、床板にまで染み出しているのがわかった。
「……こんな腐り方、見たことない」
わたしは膝をつき、そっとトマトを手に取った。
手袋越しでもわかる。
指先にぬるりとした感触がまとわりつき、なんとも気持ちが悪い。
「まぁ、待て嬢ちゃん。念のため、その手袋は外して交換したほうがいい」
「あっ、ごめんなさい」
確認する前に触ってしまった。
これは失敗だ。
替えの手袋をわたしに渡したトランが袋を覗き込むと、眉をひそめた。
「処分するために集めてたんだろうな。だが……変だな」
トランがずれた眼鏡を元に戻し、袋の底を確認する。
乾いた部分が粉のように崩れ、まるで何かに侵されたみたいだった。
普通の腐敗とは明らかに違う。
「トランさん、このトマト、持ち帰って調べた方がいいかもしれません」
「同感だけど……」
わたしの言葉にトランは少し考え込んで、結論を出した。
「いや、ここは魔法である程度保護された空間だ。持ち出すのは逆に危険かもしれない」
言われてみればそうだった。
「じゃぁ、もう少し辺りを調べて……」
そう言いながらも、胸の奥には得体の知れない不安が広がっていく。
ただの食べ物が、こんな風になるなんて……。
それから二人で部屋にあった他の大袋の中身を見ていく。
だが、かなり傷んでいるだけで、先程のような異常なトマトは発見できなかった。
異常があったのは、部屋の一角にあったあの袋のトマトだけだ。
「トランさん、仮定の話ですが……亡くなった原因が病気じゃなくて、このトマトだった場合どうなりますか?」
「どう? ……ん? どういうこと?」
「例えば、ここは貧民街です。この処分用のトマトをお裾分けされたとか、非常に安い値段で買い取った人が病気になっているとか……」
トランはそれを聞いた途端、すぐに地図を確認し始め感染者の多い地域を丸く囲った。
丸く囲った地域は三つ。
中心から広がるのではなく、すべて孤立しているように見える。
病気が原因なら、円と円の間の地域が無事なのはなぜだろうか?
偶然もあるだろうが、感染者が多い場所が三か所あり、互いに離れている。
「確認出来ている範囲で約二十三名。その内、四名は既に死亡……重症は死亡した者の近くとは限らない……」
「普通なら、近くにいた人たちから感染していく可能性の方が高いですよね?」
トランが地図を見ながら、目を細めた。
「病気じゃないってことか?」
「そこまでは断定できません。これは所長に現場を見てもらった方が良いと思います。それと念のため聞きますが、この家の近所の方々は感染しているんでしょうか?」
トランが地図と書類を交互に確認していると、不意に動きが止まった。
「してないな……どういうことだ」
「そこまではわかりません」
これ以上ここにいても、わからないだろう。
まずはあの異常なトマトだ。
精霊たちが教えてくれた物だ。
きっと何かあるはず。




