狂戦士 ー1
【1】
目の前に男がいた。素性は分からない。椅子に力なく座り、目はうつろで、伸びきった髭によだれが付着している。
「なぜ……こんなことに」 自身の身体から低い声。
夢か、これは―ハンナには、観ている光景が夢であると、なぜか気づいた。だが、夢にしては現実感が強い。
ハンナは体の自由が利かないことに気づく。隣には中年の男が一人、どこかで見た顔。それがゲオルク・ゼーフェリンクの若い姿だと遅れて気づく。
「《祝福》だ。俺やお前もおそらくはこうなる。ヨーゼフ」 ゲオルクは目を伏せ、言う。
ハンナはハッとする。これは父の記憶。なぜ?
強い絶望が腹のうちから湧き上がる―それは父の感情だ。ハンナ自身のものではない。だが、感情に飲み込まれそうになる。
「俺たちはマガイを殺す為、奴らの肉を喰らい、血を啜った」 ゲオルクは冷徹に言う。
「洗礼と称し、子供にも血を浴びせた。その結果、何十人も《祝福》を得られる前に死んだ。生き延びた我々に後遺症があるだろうことは、お前も承知だったはずだ」
ハンナの口内に妙な触感が蘇る―粘性がありながら、嫌な弾力のある、濃縮したカビのような匂いのする物体。
マガイを……喰った?
強烈な不快感で、ヨーゼフは胃の中の物をすべて吐き出す。
「いやだ……しにたくない」
「原罪の件を思い出せ、いくらここで吐いたところで、俺達に血肉に刻まれた罪は消えない」
場面が飛び、闇の中に、2人の少女が見える。父が打ちひしがれながら帰宅したことが、ハンナには分かった。それこそ、道中の記憶がなくなるほどに。
それぞれが布団で寝ている。ごつごつとした指がグレーテに、そして、ハンナに触れる。
小さい時の私……
幼いハンナは、ふっくらとした頬を振り、いやいやとした。
「死んでたまるか」 父の声は震えていた。
まずは《祝福》の仕組みを解明しなければ。父の強い覚悟が感じられた。
まず父は賢者と呼ばれる男の元へ向かった。禿げ頭に無精髭の老人はもごもごと、
「ヨーゼフよ、私はな《祝福》や《聖者》なんて言うのは嘘っぱちだと思っているんだ」
「何と……破廉恥な」 ヨーゼフは呻く。
「騎士たちに箔をつける為、この異常事態を神話体系に組み込むために教会が考えたんだろうさ」老人は続ける。
「そもそも《祝福》は、自壊していくマガイの一部を採取して、それにマガイの一部を与え続けた物を喰ったり、傷に塗り込んだ物が始祖だ。それを聖書の原罪と無理やり関連付けただけだろう」
ハンナは余りに原始的で残酷な《祝福》の発端を知り、吐き気を覚える。
老人は黙ってヨーゼフを睨みつける。教会に駆け込み、異端が居たと報告するか、それともわしの知恵を借りるかどうする、と言っているようだった。
「では……《第壱位階》の目的は何だと思われますか……」
「ここに石ころがある」 老人は手に持った、三つの石を地面に投げる。
「こっちに一つ、こっちに二つ。これらを足し、三という数字を数えることができる……だが、石から見れば、自分を使って、数字を数えているなどとは思いもしない」
「意味が分かりかねますが……」
「生物たちの異様な変質には方向性がない。我々が《第壱位階》と呼ぶ存在が、我々を使って何かをしている。それこそ、我々が石ころを用いて計算するように」
「馬鹿にしているのか!」 ヨーゼフは石ころを蹴り飛ばし、老人のもとを去った。
―自分でどうにかするしかない。
ヨーゼフは、まずマガイを大量に殺した者の症状を見た。
「殺す! ころふ!」
剣を振り回しながら、うつろな目で男は叫び、徘徊していた。その叫びは迫真で、剣で当たりの物を破壊しつくし、自身もその破片で血まみれになっていた。衣服は破れ、血にまみれた男性器がぶらぶらと揺れ、尿が垂れ流しになっている。
ハンナは目を背けたかったが、ヨーゼフはそむけなかった。
戦いに参加し、マガイを大量に倒したもので《祝福》を使用した全員がこの症状になっている。ある者は、家族のことが思い出せず、剣の稽古に明け暮れ、マガイを探しに徘徊していた。《祝福》は、我々の頭の中に入り込み、マガイと戦わせようとしているのか? だが、どうすればそれを直せるのか。
殺す、殺す、殺す。ヨーゼフの脳内で、低い声が響く。過去の記憶が消えていく。
「嫌だ……死にたくない……嫌だぁ……」
自室にこもり、ヨーゼフは酒を煽る。妻の肖像画にすがり、涙を流していた。
ハンナは様々な感情に襲われた。父のこんな姿を見たことは初めてだった。
「いや……待てよ」
ヨーゼフは、はっとする。思い出すのは、もう一人の《聖者》の姿。彼も記憶を失い、徘徊していたが、振り回していたのは、手のひらに収まる聖母の像。たまに祈るポーズもしていた。繰り返すように、それをしていた。そして、ふと我に返ったように聖母のことを話した。その饒舌さは驚くばかりであった。
「戦う前にいつも祈りを捧げていた……戦いの最中も聖母のことをも思うような信仰深さだった……」
まさか、《祝福》が我々の頭に寄生し、マガイを倒すのに重要と判断した物を残すのか。
『《第壱位階》が、我々を使って何かをしている。それこそ、我々が石ころを用いて計算するように』
それが変質させた生物を用いた生存競争を引き起こすことであったら―
「だったら……」 ヨーゼフは、寝室へ行き、娘の顔を見た。
「やってやる……」
記憶が飛ぶ。そこは、とある戦場。父がマガイに囲まれている。
小型犬サイズのマガイを殺す父。使う剣は一種類だけにしていた。そして、殺した日は必ず家に戻るようにしたようだ。
そういえば、二週間に一回、現れては、一日、ずっと私たちとべったりだったよなぁ。ハンナは身動きができない状態で思う。
マガイを殺す、もしくはマガイを殺す訓練をした日には、必ず家に帰り、娘の顔を見て、強く印象付ける。娘のことが印象づくように、家を空ける。そして、戦いの際は、娘と会うことを渇望する。家に帰り、娘と思い切り、日常を過ごす。
しかし、時が経つとそれだけでは足りなくなり、娘たちにも戦う技術を教え始める。できるだけ実戦に近い技術と、娘を結び付けるために。
【2】
何かが濡れている。はっとし、気が付くと、ベッドの上に居た。ハンナはベッドから飛び起きる。顔が涙で濡れていた。
あれは夢なんかじゃない。あれは父の記憶だ。
「とうさん……」 呟くと、また涙がこぼれた。
父は常に厳しかった。父は私のことを憎んでいたと思い込んでいた。しかし、違った。父は常に家族を思っていた。私たちのことを思っていた。自分が消えるか消えないかの闘いの切り札に、私たちを選んだ。
自分のために、娘に辛く当たるのはどれだけ苦しかったのだろうか。ハンナは気が付くと嗚咽していた。
おそらく《祝福》は、堕天使を殺すべく、神が人間に与えた力などではない。そもそも《第壱位階》は神と関係のある者かどうかすら怪しい。
ハンナは自分の考えがどれだけ異端なのか察し、微かに震える。
教会が《祝福》と呼んでいるのは、何かしらの生物の変異なのだとしたら。そして、何かしらの生存競争でしかないとしたら。いや、神は何もかもを完璧に作り上げた―こんな考えは異端だ、してはいけない。
それでも思考は止まらない。《祝福》は、マガイを殺すことに人間を方向付ける。だが、その際に関係のないと判断した物は切り捨てるか、失わせてしまうのだろう。その結果が、あの男だ。
だが、父はマガイとの戦いを、私たちを強く印象付けた。その結果、それは成功した。だが、それには様々な試行錯誤が必要だった。だからこそ、私たちにも稽古をさせた。
涙を拭き、考える。なぜ、私は記憶が無くなったり、狂気を孕んだりしないのか。ハンナの脳裏に異様な考えが浮かぶ。マガイが現れてからの20年間、王は《祝福》を研究し続けてきた。だが、逆に《祝福》もヒトを研究し、解析していたのだとしたら。
《祝福》は、自壊していくマガイの一部を採取して、それにマガイの一部を与え続けた物が始祖だと言われている。《祝福》がヒトを理解したことと合わせて考えると、《祝福》を受けた者はマガイを狩るべく、方向付けられ、戦い続けることになる。
ハンナの臓腑に冷たい物が広がる。まさか、そのために記憶を共有しているのか? いや、違う。これが私の《祝福》なのだ。
それから眠るたび、歴戦の勇者たちの記憶が流れ込んでくるようになった。
夢でマガイを斬る。その手首の曲げ方、腕の振るい方、全てが頭へ入り込んでいく。起きると、すぐに広場へ行き、動きを模倣する。枯れた地に、水が染みわたるように、動きが頭に叩き込まれていく。
夢で勇者の動きを見る、真似をする、実戦でマガイを殺す。そのサイクルを繰り返す。しかし、連日そんなことを続けていたせいで、倒れてしまう。だが、辞めるわけにはいかない。
「わたしが……」
死んで行った者たちの思いを、かなえなくては。それが、私がここに居る存在理由なのだから。
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