第7話 積み上げる理由
朝食の席に着くまで、陸翔はずっと黙っていた。
眠れなかったわけではない。
むしろ、あのあと気を失うみたいに眠ったはずだ。けれど目を覚ましてからも、夢の黒さだけが胸の奥に残っていた。
パンをちぎる手が、どうしても重い。
「どうした」
向かいに座るエランテルが、スープに手をつけたまま言った。
「顔色が悪い」
「もともとです」
「今朝のは違う」
誤魔化せない。
陸翔はしばらく迷ったあと、息を吐いた。
「……夢を見ました」
「悪夢か」
「たぶん」
エランテルはそれ以上急かさなかった。
その無言が、逆に話せと言っているようで、陸翔は観念する。
「デッキのモンスターが出てきたんです。オーガも、コボルトも、火の鳥も、ドラゴンも、ギガンティックミーティアも。みんな俺と光の線でつながってて……俺を守るみたいに周りにいた」
「それで?」
「六コストだけ、いなかった」
エランテルの手が止まる。
「いないと思ったら、もっと深い場所にいたんです。あの読めないやつだけ、黒いノイズみたいな姿で。俺につながってた線も、そいつだけ黒かった」
言葉にしているだけで、喉が冷える。
「他のモンスターたちは、俺を守ってたんじゃない。あれを押さえ込んでたんです」
エランテルは表情を変えない。
だが、目だけが鋭かった。
「それで」
「もし、あれを引いたら終わるって、そう思いました」
自分でも根拠は説明できない。
けれど、夢の中で理解してしまったのだ。
六コストはデッキの一番下にいる。
他のモンスターたちが、どうにか抑え込んでいる。
「……たぶん、俺は死ぬ」
その言葉を口にした瞬間、食堂の空気が少しだけ冷えた気がした。
エランテルはすぐには答えなかった。
やがて紅茶を一口飲み、それから淡々と言う。
「なら、なるべく使うな」
「……え?」
「カードだ」
あまりにもあっさりした答えだった。
「底に災いがあるなら、無闇に掘る理由はない。少なくとも、お前が自分で制御できぬうちはな」
正論だった。
正論すぎて、陸翔は言葉を失う。
「召喚も開封も全部やめろ、と言うわけじゃない」
エランテルは続ける。
「だが、戦いのたびに札へ頼るな。能力があるからといって、それが常に使ってよい理由にはならない」
「でも、俺はカードがないと……」
「札を切る前に殴られれば終わりだと、先日言ったはずだ」
言い返せなかった。
「しばらくは能力なしで物になるように鍛える」
きっぱりと告げられる。
「走る。振る。持つ。耐える。まずはそれだ。札は最後の手段に落とせ」
「……はい」
「返事が素直だな」
「そこしか褒めるとこないんですか」
「いまのところは」
いつものやり取りだった。
だが今朝のそれは、妙にありがたかった。
◇
その日からの一週間は、早かった。
朝は暗いうちに起きる。
走る。
朝食を詰め込む。
訓練所へ行く。
走る。
筋トレをする。
木剣を振る。
また走る。
最初の三日は、ほとんど地獄だった。
外周を十周走るだけで肺が焼ける。腕立てや腹筋で視界が白くなる。木剣の素振りは二百を超えるころには手のひらの感覚がなくなり、夜には肩が石みたいに固まった。
リッキーは相変わらず軽口ばかり叩いた。
「お、今日はまだ倒れてないですね」
「その基準やめろ」
「昨日より進歩してるってことですよ」
「褒め方が雑だな」
ファンガスは容赦がない。
「足が止まってる」
「止まってない、です……!」
「止まりかけだ。そこからが訓練だ」
鬼かと思ったが、彼はたぶん真面目なだけだった。
ミシェルは最初から最後まで冷静だった。
「腰が浮いてる」
「振り下ろしたあとに肘が死んでる」
「今ので相手を斬れると思った?」
言い方は刺々しいのに、指摘は全部正確で、直した分だけ少しずつ動きがましになるのが悔しい。
エランテルは全体を見ながらも、陸翔の崩れた箇所だけはしっかり拾った。
「肩で振るな。腰を使え」
「はい」
「顎を引け」
「はい」
「返事だけはいいな」
「そこ好きですねほんと……」
そんな毎日だった。
けれど、一週間も続くと、さすがに変化が出てくる。
走り終えたあと、前ほどすぐには膝をつかなくなった。
木剣も、最初のころよりは真っ直ぐ振れる。
素振りの終盤、腕が上がらなくなっていたのが、どうにか形を保てるようになってきた。
ある日、ファンガスが腕を組んだまま、ぽつりと言った。
「前よりはましだな」
それだけで、一日ぶんくらいは頑張れた。
◇
夜は、カードパックを開けた。
夢のことを話したあと、エランテルに「無闇に掘るな」と言われてからは、開封するたびに少しだけ躊躇うようになった。
それでもやめなかったのは、理由があった。
あれを倒すためだ。
デッキの底にいる、あの六コスト。
読めない名前の、読めない何か。
あれが本当に自分の終わりなら、見ないふりをしても仕方がない。
だったら、引き続けるしかなかった。
底へ辿り着く前に、それに対抗できる札を揃えるしかない。
開封結果は、ひどい日が多かった。
【100ゴールド E】
【100ゴールド E】
【能力値+1 D】
【100ゴールド E】
【100ゴールド E】
そんな日もあれば、
【能力値+1 D】
【100ゴールド E】
【100ゴールド E】
【能力値+3 B】
【100ゴールド E】
という日もあった。
金と、能力値。
そればかりだ。
いや、金はありがたい。王都で何かを買うにも、いずれ役に立つだろう。実際、日ごとに貯まっていく金貨の枚数は見ていて安心感がある。気づけば三千を越え、四千に届きそうな勢いだった。
だが、それは本当に欲しいものではなかった。
欲しいのは、底のあれに届く札だ。
能力値のカードを使い、陸翔は何度も考えた。
筋力や俊敏に振るべきか。
体力をさらに増やすべきか。
それとも魔力を上げて、より高コストの札を扱えるようにするべきか。
けれど結局、最後はいつも同じ結論に戻ってきた。
運だ。
この件は、たぶん運がものを言う。
走れば体は強くなる。
剣を振れば少しは形になる。
だが、それだけでは底の六コストに届かない。
必要なのは、引くことだ。
対抗のための切り札を。
だから陸翔は、手に入れた余剰値を幸運へ寄せた。
結果、一週間の終わりに個人能力値はこうなっていた。
【神崎 陸翔】
【個人ランク1】
【戦闘値 0/3/10】
【攻撃力 / 体力 / 魔力】
【筋力 3】
【俊敏 2】
【知力 5】
【幸運 17】
【余剰値 0】
【能力 言語の加護 適性無視 剣術初級】
「……だいぶ変わったな」
体力が三に、筋力も三に上がっている。
おそらく訓練の積み重ねだろう。剣術初級なんて新しい能力まで増えているのを見るに、鍛えればこういう形で反映されるらしい。
悪くない。
だが、本当に目を引くのは幸運だった。
「十七、か」
最初は筋力に振るべきかとも思った。
俊敏を上げて動けるようになるべきかとも考えた。
けれど今の自分に必要なのは、目の前の兵士に勝つ力だけじゃない。
デッキの底にいる、あの六コストをどうにかするための手札だ。
だから、賭けるべきは運だ。
強い札を引く。
必要な札を引く。
あれに対抗できる札を、底に辿り着く前に揃える。
「……全部、魔力に振ればいいって話でもないんだよな」
デッキ編集を開く。
いまの札だけをざっと見ても、一コストから五コストまでで必要魔力は七十を優に超えている。
全部を思うままに使い切るなら、今の十程度では話にもならない。
けれど、だからといって魔力だけを積み上げても意味がないことも、もうわかっていた。
引けなければ始まらない。
引いても、それが対抗札でなければ意味がない。
そして、いざというときに立っていられなければ、それ以前に終わる。
「魔力も要る。運も要る。体も要る……面倒くさいな」
呟きながら、陸翔は苦笑した。
けれど、それでよかった。
少なくとも、何を積み上げればいいのかは見えている。
◇
そして、一週間目の夜だった。
いつものように青白いスクリーンを開く。
いつものように、少しだけ息を止めて、カードパック開封の項目へ触れる。
小さく光が弾ける。
並んだ五枚のうち、一枚だけが明らかに違っていた。
金ではない。
能力値でもない。
それは、見た瞬間に刃だとわかる気配をまとっていた。
抜き身の刀を紙に封じ込めたみたいな、冷たく鋭い一枚。
【刀星ムラクモ A】
「……っ」
思わず、息が止まる。
選ぶ。
詳細が展開する。
【刀星ムラクモ】
【存在ランク4】
【消費魔力4】
【必要適性ランク4】
【8/2】
【相手のカードを1枚破壊する】
強い。
それだけは一目でわかった。
今まで引いた札のどれとも違う。格が違う。
「これなら……」
喉まで出かかった言葉を、陸翔は飲み込んだ。
違う。
違うと、すぐにわかった。
これで六コストに勝てるか。
答えは、おそらく否だ。
傷はつけられるかもしれない。
一太刀くらいは届くかもしれない。
だが、それで終わる相手ではない。
直感的に理解した。
「……でも」
無意味じゃない。
こういう札が出るなら、まだ先がある。
幸運を上げ、パックを引き続ければ、いつか本当にあれに対抗できる切り札へ辿り着けるかもしれない。
刀星ムラクモは答えじゃない。
けれど、答えへ向かう道が間違っていないことだけは示していた。
陸翔はゆっくりと、そのカードを見つめた。
「続けるしかない、か」
夢の中で見た黒い手を思い出す。
ギガンティックミーティアすら吹き飛ばした、あの理不尽な何かを。
怖くないわけがなかった。
むしろ、考えるたびに胃が冷える。
それでも、やめる理由にはならない。
引き続ける。
鍛え続ける。
底へ辿り着く前に、対抗するための切り札を揃える。
その方針が、ようやく固まり始めていた。
◇
翌朝の訓練は、いつもよりきつかった。
いや、きついのは毎日同じなのだが、ムラクモを引いた直後だったせいで、自分の中の焦りが一段増していた。
走る。
振る。
持ち上げる。
また走る。
ファンガスに「顔が死んでるぞ」と言われ、リッキーに「顔はいつも死んでますよ」と笑われ、ミシェルには「雑念が増えたならそのぶん振れ」と切り捨てられた。
そのときだった。
訓練所の入口側がざわつく。
伝令の兵が、汗をにじませた顔で駆け込んできたのだ。
「隊長!」
エランテルが振り向く。
「何だ」
「国から正式依頼です。南西街道沿いで盗賊の集団が出没。商隊への被害が拡大しているとのこと。討伐命令が下りました」
訓練場の空気が、一瞬で変わる。
リッキーの表情から軽さが消え、ファンガスは腕を組み直し、ミシェルは短く息を吐いた。
エランテルは一歩前へ出る。
「規模は」
「目撃では数十名。ただし、散り方が妙です。統率があると」
「了解した」
短く答えたあと、彼女の視線が隊員たちを走る。
そして最後に、陸翔のところで止まった。
胸の奥が、どくりと鳴った。
訓練だけでは終わらない。
とうとう、実戦が来る。
その事実だけが、やけにはっきりと響いていた。




