第6話 底にいるもの
夢だと、最初からわかっていた。
足元は暗い。
なのに、完全な闇ではない。黒い床の下に、どこか遠い星明かりみたいなものが沈んでいて、世界そのものが薄く発光しているように見えた。
陸翔は、その中央に立っていた。
周囲には、デッキに入っているはずのモンスターたちがいた。
鈍足のオーガが三体、無言で陸翔の前へ出る。分厚い体を盾みたいに並べ、低く唸っていた。
その隙間を縫うように、ゴブゴブテイラーが三体、針と糸を手にせわしなく動き回る。何かを縫い留めるように、空中へ見えない糸を走らせていた。
頭上では、やまびこの火の鳥が二羽、火の粉を散らしながら円を描く。
俊足のコボルトたちは三体、耳を伏せ、牙をむき、今にも飛び出しそうな姿勢で身構えている。
少し離れた場所には、影そのものみたいなシャドウシーカーが二体、地に溶けるように沈み込んでいた。
ホーネットビートルは二体、低く羽音を鳴らしながら、陸翔の頭上を警戒するように旋回している。
さらに奥。
未開の探索者アソートが、何かを探るように闇を見つめていた。
翼円のドラゴンは翼を半ば広げ、いつでも飛び立てるように爪を立てている。
波動の魔導士ダークブレイカーの杖の先には、青白い脈動が集まり、空気がびりびりと震えていた。
そして、そのすべてのさらに後方。
勝利の理ギガンティックミーティアだけが、山のような巨体でじっと立っていた。
誰も喋らない。
けれど、全員の意識が一つの方向へ向いているのがわかった。
そのとき、陸翔は気づいた。
モンスターたちから、自分へ向かって、細い光の筋が伸びている。
オーガから。
ゴブゴブテイラーから。
火の鳥から。
コボルトから。
シャドウシーカーから。
ホーネットビートルから。
探索者アソートから。
翼円のドラゴンから。
ダークブレイカーから。
ギガンティックミーティアから。
一本一本は細いのに、触れれば熱を持っていそうな、確かな光のパスだった。
つながっている。
そう思った瞬間、ぞくりとした。
ひとつ、足りない。
デッキにいるはずの一体が、どこにもいない。
六コストの、あの読めないカード。
名前も説明もわからない、黒いノイズの塊みたいなあれだけが、どこにも見当たらなかった。
陸翔はゆっくりと視線を巡らせる。
その先――世界の端でも前方でもない、もっと深い、底みたいな場所に、それはいた。
輪郭が定まらない。
人型のようにも見える。
獣のようにも見える。
巨大な塊にも、伸びた手足にも見える。
けれど次の瞬間には、そのどれでもなくなる。
黒いノイズ。
歪んだ影。
形を持てない何か。
それだけが、そこにいた。
そして、そいつから伸びるパスだけが、薄く、どす黒かった。
その黒い線は、陸翔の胸元へつながっている。
「……っ」
息が詰まる。
守られていると思った。
だが違う。
モンスターたちは陸翔を守っているんじゃない。
あれを、押さえ込んでいる。
そう理解した瞬間、足元から冷たいものが這い上がった。
最初に飛び出したのは、ゴブゴブテイラーだった。
「グゴッ!」
小さな体で、叫ぶみたいに駆ける。
迷いはなかった。一直線だった。
だが、黒いノイズの手前まで行ったその瞬間、見えない何かに叩きつけられたように、地へひれ伏した。
頭を押さえつけられているみたいだった。
起き上がれない。
針も糸も落とし、体を震わせている。
「……っ!」
続いて俊足のコボルトたちが駆けた。
三方向から一斉に跳ぶ。速い。目で追うのがやっとだ。
それでも、届かない。
空中で何かに弾かれ、まとめて吹き飛んだ。
悲鳴もあげられず、地を転がる。
鈍足のオーガたちが吠え、重い足取りで前へ出る。
火の鳥が炎を吐き、ホーネットビートルが羽音を唸らせる。
シャドウシーカーが影の中から潜り込む。
けれど、まるで歯が立たない。
炎は呑まれる。
影は裂かれる。
雷みたいな魔弾も、黒いノイズへ吸い込まれて消えた。
未開の探索者アソートが何かを掴むように腕を伸ばし、翼円のドラゴンが咆哮とともに飛び立つ。
ダークブレイカーの杖から波動が奔り、周囲のモンスターたちの力を受けるように光が脈打つ。
一瞬だけ、押し返したように見えた。
だが、次の瞬間には全部まとめて吹き飛ばされた。
まるで、怒ったわけですらないみたいに。
ただそこにいるだけで、圧し潰される。
陸翔の喉が震えた。
そのときだった。
ギガンティックミーティアが動いた。
巨人は膝をつかなかった。
他のモンスターたちが押し返される中で、ただ一体だけ、黒い圧へ逆らうように前へ出る。
足が一歩進むごとに、夢の床が砕ける。
拳を握るだけで、周囲の空気がうねる。
いける、と陸翔は思った。
こんな化け物じみた相手でも、ギガンティックミーティアなら。
ランク5の札なら。
勝てるかもしれない、と。
黒いノイズが、ゆっくりと揺れた。
そこから“手”のようなものが伸びる。
形は曖昧なのに、それが手だとわかってしまう。
長い。
黒い。
指の数も関節の位置もめちゃくちゃなのに、それでも手だった。
それが、横薙ぎに振るわれた。
轟音はなかった。
なのに、世界そのものが叩かれたみたいに見えた。
ギガンティックミーティアの巨体が、信じられないほどあっさりと吹き飛ぶ。
山みたいな体が、紙くずみたいに宙を舞った。
「ぁ……」
声にならない。
だめだ。
勝てない。
これは勝負ですらない。
黒い手が、今度はまっすぐ陸翔へ向かって伸びてくる。
周りのモンスターたちが陣を敷き直す。
オーガが前へ出る。
ドラゴンが翼を広げる。
ダークブレイカーが前に立つ。
火の鳥が旋回し、甲虫が降下し、シャドウシーカーが影を這う。
それでも止まらない。
じり、じりと、黒い何かが近づいてくる。
陸翔は、胸の奥で理解していた。
あれはデッキの一番下にいる。
必ず、一番下に。
こいつらが抑え込んでいるから、まだ出てこないだけだ。
引けば引くほど、底は近づく。
引き切ったら――終わる。
たぶん、自分は死ぬ。直感的にそう思った。
黒い手が目の前まで迫る。
触れられる。
そう思った、その瞬間だった。
――お兄ちゃん。
遠い。
なのに、はっきり聞こえた。
聞き間違えるはずがない。
妹の声だった。
世界がひび割れる。
黒いノイズも、吹き飛ばされた巨人も、ひれ伏したゴブゴブテイラーも、光のパスも、全部まとめて砕け散った。
「っ……!」
陸翔は跳ね起きた。
荒い呼吸が喉を焼く。
汗で寝間着が背中に張りついている。
暗い天井。見知らぬ部屋。窓の外は、まだ夜の色を残していた。
夢だ。
そうわかるのに、胸の奥だけがまだどす黒く冷えている。
しばらく、動けなかった。
いつの間にか出現しているデッキケースを見つめる。
静かだ。
何も起きていない。
ただの箱みたいに、そこにある。
けれど、もう違う。
わかってしまった。
あれは、底にいる。
必ず一番下に。
他のモンスターたちが、まだ抑え込んでいるだけだ。
引けば引くほど、底は近づく。
引き切れば、おそらく終わる。
「……祝福なんかじゃない」
かすれた声が、静かな部屋に落ちる。
異世界に来て、カードを使えるようになった。
高位の札に手が届く。
適性すら踏み越えられる。
そんなもの、主人公の特権みたいに見えるかもしれない。
でも違う。
「呪いだ……」
陸翔はそう呟いた。
妹の声の残響だけが、まだ耳の奥にかすかに残っていた。




