第5話 訓練初日
扉を叩く音で、陸翔は目を覚ました。
重い。
全身が、ひどく重い。
昨日は遅くまでシステムをいじっていた。そのせいもあるだろうが、それ以上に、精神のほうが先にへばっていた。王国壊滅だの、願いの欠片だの、エランテルの死亡だの、寝て起きたら全部夢でした、で済んでくれればよかったのに、目に入る天井はきっちり見知らぬ屋敷のものだった。
「失礼いたします」
落ち着いた男の声がした。
「起床のお時間です」
昨夜のマルタとは違う声だ。
寝ぼけ眼のまま返事をすると、扉が静かに開いた。入ってきたのは、年老いた男だった。背筋の伸びた細身の体に、隙なく整えられた黒服。髪はすっかり白いのに、動きには無駄がない。
「当家で執事を務めております、セバスチャンと申します」
軽く一礼される。
「朝食のご用意が整っております。隊長がお待ちです」
「……どうも」
寝起きの声で答えながら、陸翔は体を起こした。
筋肉痛、というほどではない。だが、肩も首も妙に張っている。昨夜、緊張したまま立ったり座ったりを繰り返していたせいだろう。
セバスチャンはそんな陸翔の様子を見ても顔色一つ変えず、椅子の背にかけてあった服を示した。
「着替えはそちらに。十分後にご案内いたします」
それだけ告げて出ていく。
「……この家、使用人まで隙がないな」
ぼやきながら、陸翔は顔を洗った。
◇
朝食は静かだった。
長い食卓の端と端に座るほど広くはないが、向かい合っても妙な圧がある距離感だった。エランテルはすでに席についており、焼きたてのパンをちぎりながら、何事もない顔で紅茶を飲んでいた。
「遅い」
「十分ぴったりでしたよね?」
「起きてから席に着くまでが遅い」
「理不尽だ……」
とはいえ、食事に文句はない。
温かいスープに、卵料理に、香草をまぶした肉。昨日までの状況を考えれば、十分すぎるほどまともだった。
ただ、喉を通るたびに胃が重くなる。
言わなければならないことがあった。
エランテルはナイフを置き、こちらを見た。
「どうした」
「……わかります?」
「顔に出ている」
逃げ道がなかった。
陸翔はパンを置き、息をつく。
「昨夜、システムを確認しました」
「勝手にか」
「一応、黙ってるのもまずいと思ってはいたんですけど」
「その判断を最初にしろ」
正論すぎて痛い。
「で、何がわかった」
「カードが使えます」
エランテルの手が止まった。
「正確に言え」
「……召喚、できます」
一瞬、空気が変わる。
エランテルの目が、わずかに細まった。
「どの程度だ」
「まだ低コストだけです。手札とか、エンゲージとか、そういうギャリモンのルールに近い感じで。試しに一枚だけ使って……ゴブリンみたいなのが出ました」
「昨夜、この屋敷でか」
「はい」
「正気か?」
「だから今こうして報告してるんですって」
エランテルは数秒、無言だった。
やがて椅子を引く。
「食事を終えたら裏庭へ来い」
「……はい」
「そこで再現しろ」
やっぱりそうなるか、と陸翔は思った。
◇
食後、屋敷の奥にある小さな訓練庭へ連れていかれた。
朝露の残る石畳の一角だ。人目は少ない。門や塀の向こうからは見えにくくなっている。いかにも、秘密の確認に向いた場所だった。
エランテルは腕を組んだまま立つ。
「始めろ」
「言い方が処刑前なんですけど」
「無駄口はいい。やれ」
陸翔は深呼吸した。
「エンゲージ」
デッキケースがふわりと浮き、カードが舞う。
五枚の手札が目の前に並ぶのを見て、エランテルの眉がぴくりと動いた。
見えている。
少なくとも、いまは彼女にも見えているらしい。
「……なるほど」
低く漏らした声に、警戒が滲んだ。
陸翔は手札を見下ろした。
幸い、昨夜と同じくゴブゴブテイラーが混ざっている。
【ゴブゴブテイラー】
【存在ランク1】
【消費魔力1】
【必要適性ランク1】
【1/1】
【効果なし】
「これで」
触れる。
足元に煙が弾け、小柄なゴブリンが姿を現した。
「グゴ?」
針と糸を持った仕立て屋ゴブリンが、きょろきょろと周囲を見回す。
エランテルは即座に剣へ手をかけたが、抜きはしなかった。
代わりに一歩だけ前へ出て、冷ややかに観察する。
「命令は通るのか」
「たぶん」
「試せ」
「ええと……その場で一回転」
「グゴ」
ゴブゴブテイラーは、律儀にその場でくるりと回った。
エランテルの視線がさらに鋭くなる。
「退去は」
「帰れ」
ゴブゴブテイラーは短く鳴き、輪郭をほどいて光になった。
ふっと消えたあとの静けさが、妙に冷たい。
しばらくの沈黙のあと、エランテルは口を開いた。
「本当に召喚か」
「だからそう言ったじゃないですか」
「口頭の報告と、現物を見るのでは重みが違う」
そのまま、彼女は陸翔の手元のカードを見た。
「存在ランク。必要適性ランク。……これはお前にだけ見えている表示か?」
「たぶん、俺が触ると詳しく出ます。あと、自分の能力欄に『適性無視』ってあって」
「適性無視?」
「高いランクの札も、本来は使えないはずなんです。でも、俺はそこを無視できるっぽいです」
エランテルは露骨に嫌そうな顔をした。
「厄介極まりないな」
「ひどい」
「褒めていない」
即答だった。
だが彼女はそれ以上責めず、淡々と言葉を続けた。
「以後、召喚は無断で使うな。隊内で勝手に見せれば無用な混乱を招く。私の許可なく市街で使えば処刑する」
「はい」
「ただし、報告した点は評価する」
思わず顔を上げる。
「……褒めました?」
「返事が素直だったからだ」
「そこなんだ」
ほんのわずかに、エランテルの口元が緩んだ気がした。
気のせいかもしれない。
「行くぞ」
「どこへ」
「訓練所だ」
彼女はきっぱりと言う。
「召喚できるならなおさら、基礎を叩き込む必要がある」
「いや、そこ逆じゃないですか? 召喚できるなら、そっち中心で――」
「札を切る前に殴られたら終わる」
何も言い返せなかった。
「走れぬ者は逃げられない。踏ん張れぬ者は武器を持てない。立っていられぬ者は、カードを握る前に死ぬ」
エランテルは振り返らないまま告げた。
「お前の体はまだ最低辺だ。そこからだ、カンザキ・リクト」
◇
第七警邏隊の訓練所は、屋敷の裏庭とは比べものにならない広さだった。
砂の敷かれた走路、木剣の立てかけられた棚、槍や盾を使うための区画、魔導具らしき的まで並んでいる。朝からすでに何十人もの兵が動いており、怒号と掛け声と金属音が絶えなかった。
「隊長、おはようございます!」
真っ先に声をかけてきたのは、明るい茶髪の男だった。年は二十代半ばくらいか。よく通る声と、どこか人懐っこい顔つきが印象に残る。
「こいつが例の仮属ですか?」
「ああ」
エランテルが短く答える。
「紹介しておく。リッキー・ヘリオス」
「どうも。よろしく、異邦人くん」
軽く手を挙げられた。
次に近づいてきたのは、大柄な男だった。肩幅が広く、日に焼けた顔つきは岩みたいにごつい。目つきは厳しいが、無駄口を叩くタイプではなさそうだ。
「ファンガス・ヤロンだ」
それだけ言って、陸翔を上から下まで見た。
「細いな」
「言い方」
「事実だろう」
身も蓋もない。
最後に、少し離れたところから歩いてきたのは、短く髪をまとめた女兵士だった。整った顔立ちだが、愛想でごまかす気のない目をしている。
「ミシェル・エバン」
簡潔だった。
「倒れるなら端で倒れて。邪魔だから」
「初対面でそれ?」
「気を遣っても強くはならないでしょ」
正論が痛い。
エランテルが三人を見回す。
「こいつは今日から仮属だ。荷物持ち、記録、雑務を担当させる。だがその前に、基礎体力をつける」
「了解」
「了解です、隊長」
「了解」
三人三様の返事が返る。
陸翔は訓練場を見回した。
広い。人数も多い。これでも全員ではないのだろう。ここにいない隊員は、巡回や詰所勤務、城門警備や駐屯任務に出ているはずだ。
「ぼさっとするな」
エランテルの声が飛ぶ。
「まずは外周十周」
「じゅ、十!?」
「少ないと思うか?」
「多いです!」
「では走れ」
容赦がなかった。
◇
三周目で呼吸が壊れた。
胸が焼ける。足が重い。脇腹が痛い。何より情けないのは、自分の前を同年代の兵たちが普通に抜いていくことだった。
「遅いぞー!」
リッキーが横を軽く走りながら笑う。
「まだ三周ですよ、仮属くん!」
「うるさい……!」
「返事ができるならまだいけるな」
すぐ後ろからファンガスの声が飛ぶ。
鬼か。
どうにか十周を終えたときには、陸翔は膝に手をついてしばらく動けなかった。そこへ間髪入れず、腕立て、腹筋、スクワットが続く。休憩がない。いや、正確には人並みの兵士にはあるのだろうが、陸翔にはそれが休憩になっていないだけだ。
「なんで………こんな……」
腹筋の途中でうめくと、そばで数を数えていたミシェルが冷淡に言った。
「この国の人間の大半はランク1。兵士だって、まずはそこから。走る、持つ、耐える。そこができなきゃ話にならない」
息を切らしながら、陸翔は顔を上げた。
「ランク、って……」
「優秀と呼ばれるのがランク2。騎士団でも一目置かれる」
ミシェルは表情一つ変えない。
「ランク3になれば、国で名の知れた強者。そこから先は別世界」
横からリッキーが口を挟んだ。
「4以上なんて、普通は見ないね。いたら大騒ぎだ。5なんて伝承の怪物か、神話の中の話だよ」
「余計なことを喋るな」
ファンガスが睨む。
「事実だろ」
「仮属が浮つく」
その会話を聞きながら、陸翔の喉がひりついた。
個人ランク1。
昨夜見た自分の表示が、重くのしかかる。
この世界じゃ、それが普通で。
だからこそ、手元にある高位札の異常さも際立つ。
「……なるほど、ね」
「納得したなら続けて」
ミシェルが淡々と告げた。
「あと三十回」
「まだあるの!?」
「当たり前でしょ」
泣きたかった。
◇
午後は素振りだった。
木剣を握る。
振り下ろす。
戻す。
また振る。
単純な動作のはずなのに、百も振れば腕が死んだ。二百を超えたころには手のひらがひりひりと熱を持ち、握力が怪しくなってくる。
「脇が開いてる!」
「腰が逃げてる!」
「足を止めるな!」
三方向から容赦なく飛んでくる声に、陸翔は半ば反射で動き続けた。
エランテルは少し離れた位置で別の隊員を見ていたが、こちらの崩れたフォームだけはきっちり拾ってくる。
「肩だけで振るな。腰を入れろ」
「はいっ」
「返事だけはいいな」
「そこ褒めるんですか!?」
「褒めていない」
そのやり取りに、近くにいたリッキーが吹き出した。
「隊長、ちょっとだけ優しいっすね」
「気のせいだ」
「気のせいですね」
「お前も走らせるぞ、リッキー」
訓練場に笑いが起きた。
ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。
だが、やわらいだのは空気だけで、訓練の強度はまったく落ちなかった。
日が傾くころには、陸翔の腕は自分のものじゃないみたいに痺れていた。足も震える。肩で息をし、汗で前髪が目に張りつく。
「本日はここまで」
エランテルの一声でようやく終わった瞬間、陸翔はその場に座り込んだ。
「死ぬ……」
「死んでない」
真上から降ってきた声に顔を上げると、エランテルが呆れたように見下ろしていた。
「初日でこれなら上々だ」
「それ、慰めてます?」
「事実を述べているだけだ」
そう言いながら、水筒を投げてよこす。
どうにか受け取り、一気に飲んだ水は、信じられないほどうまかった。
リッキーが隣にしゃがみ込む。
「いやー、ほんとにひょろいのに最後までやりましたね」
「褒めてるのかけなしてるのかどっちだよ」
「半々?」
「最悪だ」
ファンガスは腕を組んだまま言う。
「甘やかすな。明日も同じだけやらせる」
「鬼だ」
ミシェルは木剣を棚に戻しながら、こちらを一瞥した。
「倒れなかっただけまし。少しは見直した」
「あなたが一番怖いんですけど」
「知ってる」
即答だった。
そのとき、エランテルが全員を見回した。
「解散。夜警組は入れ替えまで休め。残りは点呼ののち自由」
隊員たちが散っていく。
陸翔が立ち上がろうとしてよろけると、エランテルがわずかに眉をひそめた。
「歩けるか」
「たぶん……」
「たぶんで歩け。屋敷まで戻るぞ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、置いていく気はないらしい。
それだけで少しだけ救われる自分が、なんだか悔しかった。
◇
夜。
風呂に入って、食事をして、部屋へ戻ったところで、陸翔はベッドへ倒れ込みそうになった。
限界だった。
だが、それでもやることが一つ残っている。
「……カードパック開封」
青白いスクリーンが浮かぶ。
眠い。腕が重い。けれど、今日引かなければ損だという考えだけは消えなかった。
【第一弾『始まりの物語』 1/1】
押す。
小さく光が弾け、五枚の結果が並んだ。
【100ゴールド E】
【100ゴールド E】
【能力値+1 D】
【100ゴールド E】
【100ゴールド E】
「……うわ」
ひどかった。
ひどいにもほどがある。
ほとんど金だ。夢も希望もない。
「いや、まあ……金はあって困らないけどさ……」
虚しく呟いてから、ふと目を止める。
【能力値+1 D】
また能力値だ。
前回も能力値は入っていた。今回もある。偶然にしては出来すぎている。
「……もしかして、これだけは最低保証なのか?」
もしそうなら、派手な当たりよりよほど重要かもしれない。
ゴールドは使えば減る。カードも引けるかどうかは運だ。だが能力値だけは、自分そのものに積み上がる。
今日の訓練を思い出す。
走れなかった。
持てなかった。
振れなかった。
カードがあっても、体がついてこなければ話にならない。
だったら、この地味な一ポイントのほうが、下手なレアより重い可能性すらある。
「……ほんと、地味だな」
けれど、嫌いじゃなかった。
少なくとも、今日の自分には似合っている。
能力値のカードをインベントリへ収めたところで、限界が来た。
まぶたが落ちる。
もう何も考えたくない。
王国壊滅も、願いの欠片も、エランテルの死亡も、いまは全部頭の隅へ追いやるしかなかった。
「明日、また考える……」
呟きは最後まで形にならない。
陸翔はそのまま、泥のように眠りに落ちた。




