第16話 命の価値は
白い部屋だった。
壁も。
床も。
天井も。
何もかもが、病的なほど白い。
そのくせ、清潔には見えなかった。
薬品の甘ったるい臭いの奥に、血と腐敗の臭いがこびりついている。
どれだけ磨いても消えない汚れが、部屋の隅々に薄く染み込んでいた。
硝子管が並んでいる。
人ひとりが入るほどの大きさのもの。
腕だけを沈める細いもの。
赤黒い液体を湛えたもの。
中身の見えないよう曇らされたもの。
その中央で、ひときわ大きな筒の中に、一人の女が吊るされていた。
痩せている。
やつれている。
だが、それでも骨格の強さだけは隠せなかった。
黒髪。
獣の耳。
虎の尾。
虎狼族の女。
手首と足首は金具で固定され、肌には無数の注射痕が残っている。
胸はかすかに上下していたが、その呼吸はもはや生きているというより、死にきれていないだけのものに見えた。
「駄目だな」
細い声がした。
白衣を纏った男が、硝子管の前に立っている。
医者のような格好だった。
だが、人を救うための白ではない。
解体し、測り、削るための白だ。
白髪。
痩せた体。
落ち窪んだ目。
青白い指先。
その男こそが、ランク3――脳みそ狂いのマッドだった。
彼は硝子の向こうの女を見上げ、つまらなそうに眉を寄せる。
「母体は限界か。予想より早い」
嘆きはない。
焦りもない。
ただ、実験器具が壊れかけていることに不満を漏らす職人の声だった。
傍らの机には、赤い果実に似たものが載っていた。
まだ未完成。
表面は不自然に艶めき、脈打つように微かに震えている。
果実と呼ぶには生々しく、肉塊に近かった。
マッドは注射器を出し、肉塊から赤い汁を採取した。
机の端には、小さな檻が置かれていた。
中には、死にかけた鼠が一匹。
毛は抜け落ち、呼吸は浅く、目は白く濁っている。
マッドはその鼠へ、赤い汁を注入した。。
次の瞬間。
痙攣していた足が止まった。
抜け落ちていた毛が、見る間に生えそろう。
濁っていた目が、若い獣のように澄んでいく。
老いた命が、無理やり巻き戻されていく。
だが、数秒後。
鼠は干からびたミイラとなった。
出力が足りなかった。
若返ったはずの体は、形を保てず、ぐずぐずに崩れていった
マッドは眉一つ動かさず、記録紙に線を引く。
「また失敗か」
そして、硝子管の中の女を見上げた。
「やはり母だけでは足りない。娘がいる」
その声には、執着だけがあった。
命の果実。
そう呼ばれる禁忌の研究。
老化を退ける。
肉体を高める。
そして、不死へ至るための踏み台。
だが、完成には足りない。
若く、強く、濁りの少ない生命力が。
「同じ虎狼族であれは更に希少。しかも若い。柔軟な肉体。回復も早い。母体よりも、さらに純度が高い」
マッドは机の上の果実を撫でる。
「材料として、あまりにも優秀だ」
◇
そのとき、部屋の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、大柄な男だった。
肩幅が広い。
顔には古傷が走り、腰には血の染みた剣が提げられている。
盗賊というより、人を斬るためだけに鍛えられた獣みたいな男だ。
ランク2の盗賊、ヴェイター。
この研究施設の警備と、汚れ仕事を任されている男だった。
「おい」
不機嫌を隠そうともしない声が響く。
「娘はまだか」
マッドは振り返りもせずに言った。
その言い方は静かだった。
だからこそ、部屋の空気を冷やした。
ヴェイターは鼻を鳴らす。
「スラムに逃げられた。だが問題ねぇ。あそこは俺たちの庭だ」
「庭、ね」
マッドはようやく振り返った。
落ち窪んだ目が、ヴェイターを映す。
「君の庭は、随分と広いわりに役に立たないらしい」
その瞬間、別の男が半ば転がるように部屋へ飛び込んできた。
手下の盗賊だった。
顔は真っ青で、息は上がりきっている。
「ヴェ、ヴェイター様!」
「なんだ」
「連れ去られた! 娘が! スラムから消えて――」
男は怯えた顔で続けた。
「エランテルです! あの女騎士が持っていきやがった!」
一瞬、沈黙が落ちた。
次の瞬間。
ヴェイターの拳が、報告に来た男の顔面へ叩き込まれていた。
骨の砕ける音がした。
男は壁まで吹き飛び、床に崩れる。
「この役立たずが!」
ヴェイターが吐き捨てる。
「スラム一つ囲めねぇのか! 何人つけてたと思ってやがる!」
床でもがく男を、さらに蹴り飛ばす。
白い床に血が飛び散った。
「—————ふざけるな! なあのクソ売娘がぁ!」
怒鳴りながら、ヴェイターは近くにいた別の実験体を八つ当たりみたいに蹴り飛ばした。
檻の中でうずくまっていた痩せた実験体が、苦鳴を漏らして転がる。
マッドはその光景を、興味の薄い目で見ていた。
「殺すな」
「あ?」
「それも一応、材料だ」
マッドがそう言うと、ヴェイターは舌打ちした。
「胸糞悪ぃ」
「効率の話だ」
マッドは床に落ちた血を見下ろした。
「それより娘だ。失ったままでは困る」
「わかってる。取り返しゃいいんだろ」
「力ずくで、か」
「俺にそれ以外を期待してんのか?」
「君にはしていない」
マッドは机の上に並ぶ書類へ目を落とした。
そこには貴族の印章が押されている。
この研究は、王都の表では決して語れぬ金で動いていた。
「だから、雇い主の名を使う」
ヴェイターの眉が動いた。
「貴族様の横槍ってやつか」
「そうだ」
マッドは一通の封書を取り出した。
封蝋には、白い手袋を模した紋章が刻まれている。
「娘は盗難品。あるいは、雇い主の所有する研究資産。それを無断で持ち去ったとなれば、保護ではなく誘拐として扱える」
「エランテルが従うと思うか?」
「従わないだろうな…」
マッドは笑わなかった。
「だが、従わなければ、こちらから奪う理由になる」
ヴェイターの口元が吊り上がる。
「じゃあ、俺は?」
「屋敷を見張れ。引き渡し場所は北区の旧水門。明日だ」
「ずいぶん急ぐな」
「それは急ぐとも」
マッドは硝子管の中の母親を見上げた。
「母体がもたない」
虎狼族の女の指が、かすかに震えた。
聞こえているのか。
意識があるのか。
それとも、娘という言葉に体が反応しただけなのか。
どちらでも、マッドには関係なかった。
「娘は貴重だ」
マッドは、ようやくヴェイターをまっすぐ見た。
「殺すな。泣かせるのは構わないが、弱らせるな」
「注文が多いな」
「素材が濁る」
その一言で、ヴェイターは口を閉じた。
人間に向ける言葉ではなかった。
素材。
マッドにとって、母も娘も、それでしかない。
「で、母親のほうは?」
ヴェイターが硝子管を顎で示す。
「娘が戻るまでは持たせよう」
「戻らなかったら?」
マッドは硝子管に近づき、白い手袋をはめた指で硝子を軽く叩いた。
中の女の瞼が、わずかに震える。
「聞こえているか」
返事はない。
マッドは優しい声で言った。
「よかったな。娘は生きていた」
硝子管の中で、女の指がまた動いた。
「だから、明日使う」
マッドは装置の起動輪へ手をかける。
部屋の奥で、魔導刻印が淡く光り始めた。
硝子管につながる管が震え、白い部屋全体が低く唸る。
虎狼族の女の体が、苦しげに跳ねた。
「娘が戻れば、お前は不要になる」
マッドは穏やかに続ける。
「戻らなければ、お前を最後まで絞る」
ヴェイターが封書を受け取る。
「明日まで、か」
ヴェイターは獰猛に笑い、部屋を出ていった。
白い部屋の奥で、装置がさらに強く唸る。
硝子管の中の母親は、声にならない声で娘の名を呼んだ。
その声は誰にも届かない。
ただ、未完成の命の果実だけが、どくりと一度だけ脈打った。




