第15話 拾った小さい存在
二人が屋敷へ戻ったときには、日がだいぶ傾いていた。
背中に残っていた視線の感触は、まだ消えていない。
スラム街の出口で感じた、首筋を撫でるようなあの気配。
ただの野次馬の目ではなかった。
誰かが、こちらを測っていた。
何を拾ったのか。
どこへ持ち帰るのか。
そう値踏みするような視線だった。
だから陸翔は、屋敷の門が見えた瞬間、少しだけ息を吐いた。
だが、その安堵は玄関へ入る前に消えた。
門の内側で、セバスチャンが待っていた。
いつものように穏やかな姿勢だった。
けれど、目だけが違う。
屋敷の執事としてではなく、外敵を見つけた番犬のような目をしていた。
「お戻りを、お待ちしておりました」
セバスチャンは深く頭を下げる。
エランテルが足を止めた。
「何かあったか」
「はい。先ほどから、同じ馬車が屋敷の前を三度通っております」
陸翔の背筋が冷えた。
「馬車……?」
「御者は変わっておりません。客を乗せている様子もない。ただ、門前を通るたびに速度を落とし、こちらを確かめているようでした」
スラムの出口で感じた視線。
あれは気のせいではなかった。
エランテルの表情がわずかに険しくなる。
「どこの馬車だ」
「紋章は隠されておりました。ただし、車輪と馬具は貴族街で使われるものに近いかと」
「……早いな」
エランテルが低く呟いた。
その腕の中では、痩せた子供がぐったりと意識を失っている。
泥と血で固まった髪。
乾いた唇。
軽すぎる体。
セバスチャンの視線が、その子供へ落ちる。
「その子は」
「保護した」
「なるほど、おそらく目的はその子でしょう…」
「おそらくな」
エランテルは短く答えた。
「客室を一つ空けろ。水と湯、それから消化のよいものを用意させろ」
「かしこまりました」
すぐにマルタも駆け寄ってくる。
「まあ……!」
子供の姿を見るなり、マルタは息を呑んだ。
「ひどい……」
「驚いている暇はない」
エランテルが言う。
「温めろ。まずはそれからだ」
「はい、すぐに!」
マルタが駆け出す。
陸翔は無意識に子供の体を抱き直した。
保護した。
そう思ったばかりだった。
だが違う。
この子はまだ、追われている。
◇
客室の寝台へ寝かせ、汚れた布を慎重に外していくうちに、陸翔は息を止めた。
「……耳?」
黒髪の間から、獣の耳がのぞいていた。
狼の耳だった。
さらに、薄い毛布の下で、細い尻尾がかすかに揺れる。
虎の尾だ。
痩せすぎていて最初は気づかなかったが、毛並みにはうっすらと縞が見えた。
小柄な体つきもあって、見た目は十歳前後にしか見えない。
だが、近くで見れば、骨格はもう少し育っているようにも思えた。
手首には赤黒い擦れ跡がある。
足首にも、同じような痕が残っていた。
拘束されていた痕だと、見ればわかった。
「虎狼族か」
エランテルが低く言った。
「知ってるんですか」
「文献で読んだ程度だ。東方にいる部族だと言われている」
彼女は眠る子供の耳と尾を見た。
「この国で見る種ではない。まして子供ならなおさらだ」
「流れ着いた、とかじゃなくて?」
「この状態で、か?」
エランテルの声は冷たかった。
「売れば高くつく。好事家の貴族や、趣味の悪い連中が欲しがりそうな見た目をしている」
陸翔は思わず顔をしかめた。
マルタがぬるま湯をしぼった布で、子供の額を拭いていく。
セバスチャンは無駄のない手つきで薄いスープを用意し、薬草の匂いを部屋へ満たした。
それでも部屋の空気は、落ち着かなかった。
窓の外に、誰かがいる気がする。
廊下の向こうから足音が聞こえるたびに、追手が踏み込んできたのではないかと思ってしまう。
陸翔は寝台のそばに座り、ぼんやりとその顔を見た。
眠っていると、本当に幼く見える。
痩せた頬。
長い睫毛。
閉じられた瞼の下で、時折不安そうに目が動く。
こんな子が、あの場所にいた。
しかも、あれはたぶん偶然じゃない。
「……スラムに捨てられたんじゃない」
陸翔が呟くと、エランテルが壁際で腕を組んだまま答えた。
「だろうな」
「誰かが逃がしたのか、それとも逃げてきたのか……」
「どちらにせよ、厄介事の匂いしかしない」
けれど、この場で追い出せとは言わない。
陸翔はそのことに、ほんの少しだけ救われた。
◇
しばらくして、エランテルは隊の報告があると言って部屋を出た。
セバスチャンとマルタも、必要なものを揃えるため一度下がる。
残ったのは陸翔一人だった。
部屋は静かだった。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れていく。
呼吸の浅い音だけが、寝台の上から細く続いていた。
「……大丈夫か」
返事はない。
当然だ。
それでも、誰もいない部屋で黙っているのが妙に落ち着かなくて、陸翔はそう声をかけていた。
水差しを取り、布をしぼる。
額へ乗せる。
毛布がずれれば直す。
そうしているうちに、ふいに寝台の上の指が動いた。
「……っ」
細い肩が跳ねる。
次の瞬間、子供はがばっと身を起こした。
狼の耳がぴんと立ち、毛布を跳ねのける。
浅かった呼吸が一気に荒くなり、金色がかった瞳が鋭くこちらを射抜いた。
「お、おい――」
言い終わる前に、少女は犬歯を剥いた。
喉の奥から、低い唸り声が漏れる。
今にも飛びかかってきそうな目だった。
逃げる体力なんて残っていないはずなのに、それでも威嚇だけはやめない。
「待て、待つんだ。敵じゃない」
陸翔は慌てて両手を上げた。
少女は唸りを止めない。
毛を逆立てる猫みたいに、全身を強張らせている。
目は完全に怯えていた。
怯えながら、それでも噛みつこうとしている。
そのときだった。
陸翔の口から出た言葉が、自分でも知らない響きに変わった。
「大丈夫。もう安全だよ」
言った瞬間、少女の目が見開かれた。
「……ぇ」
唸りが止まる。
狼の耳が、ぴくりと震えた。
「おにいちゃん……」
かすれた声だった。
「ことば、わかるの?」
陸翔は思わず固まった。
意味は、はっきりわかった。
だが、彼女が話したはずの言葉は、日本語ではなかった気がする。
それでも通じる。
言語の加護。
たぶん、そういうことなのだと理解した。
「……ああ。たぶん、わかる」
できるだけゆっくり答える。
「ここは安全だ。少なくとも、すぐに何かされる場所じゃない」
少女はまだ警戒していた。
だが、さっきまでの剥き出しの敵意とは違う。
戸惑っている。
それが顔に出ていた。
「なんで……?」
「こっちが聞きたい」
思わずそう返すと、少女はきょとんとした。
その顔が、年相応に幼かった。
「水、飲めるか?」
こくり、と小さく喉が動く。
陸翔は杯に少しだけ水を注ぎ、ゆっくり差し出した。
少女はしばらく警戒していたが、震える指で受け取り、少しずつ口をつける。
飲み込むたび、痩せた喉が上下した。
「名前は?」
少女の肩が、ぴくりと震えた。
一瞬だけ、目が泳ぐ。
「……メーファ」
短く答える。
「メーファ?」
うなずく。
それだけだった。
もっと聞けそうな気もしたが、今はやめたほうがいいとわかった。
追い詰めれば、またすぐ牙を剥くだろう。
だから陸翔は、少し間を置いてから、わざと何でもないように言った。
「じゃあ、ピノ・メイファって名前じゃないんだな」
その瞬間だった。
少女の体が、びくっと強張った。
耳が立つ。
尾が凍る。
杯を持つ手が、かすかに震えた。
知っている。
そうとしか思えない反応だった。
だが、少女――メーファはすぐに唇を引き結び、首を振った。
「……しらない」
声は小さい。
けれど、拒絶だけははっきりしていた。
「ピノ・メイファなんて、しらない」
陸翔はそれ以上、追わなかった。
知らない人間の反応じゃない。
けれど、今ここで踏み込めば、また殻に閉じこもる。
「わかった」
そう答えると、メーファは不思議そうに目を瞬いた。
問い詰められると思っていたのかもしれない。
「……きかないの?」
「今は聞かない」
陸翔は水差しを置いた。
「メーファは、死にかけてたんだ。まずは治さないとな」
メーファはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
だが、その直後。
扉の向こうから足音がした。
「失礼いたします」
セバスチャンの声だった。
続いてマルタも部屋へ入ってくる。
その瞬間、メーファの空気が一変した。
「ッ……!」
犬歯が覗く。
耳が伏せられ、尾が逆立つ。
さっきよりあからさまな敵意だった。
喉の奥から、また低い唸りが漏れる。
「まあ、起きて……!」
マルタが一歩出ると、メーファはびくりと肩を震わせ、寝台の端まで身を引いた。
「グルル……ッ」
完全に威嚇している。
だが、今度は言葉が通じていないらしい。
セバスチャンが落ち着いた声で何か言っても、メーファの反応は変わらない。
「……やっぱりか」
陸翔は小さく呟いた。
「カンザキ様?」
マルタが不思議そうに見る。
「この子、二人の言葉はわからないみたいです」
「え……?」
「たぶん、俺だけ通じます」
セバスチャンの目が、わずかに細められた。
陸翔はメーファのほうを見た。
「大丈夫だ」
ゆっくり、彼女の言葉で言う。
「この二人も、痛いことはしない。お前を助けてる」
メーファはすぐには信じなかった。
だが、陸翔とセバスチャン、マルタの顔を見比べ、少しずつ唸り声を弱めていく。
「……ほんと?」
「ああ」
「しばらない?」
「縛らない」
「いたいの、しない?」
「しない」
それでようやく、メーファは力なく毛布を掴んだ。
まだ怯えている。
まだ疑っている。
けれど、完全に拒絶はしていない。
その変化だけで十分だった。
「まずは栄養をとらないと」
陸翔が言うと、メーファはこくりと小さくうなずいた。
その様子を見ていたセバスチャンが、静かに口を開く。
「どうやら、橋渡し役はあなたしかいないようですな」
「みたいですね」
陸翔は苦笑した。
けれど、胸の奥では別の感情が広がっていた。
システムが示した保護対象。
真の名に怯える子供。
拘束痕。
東方の獣人。
そして、通じるはずのない言葉。
これは、ただ一人を助けて終わる話ではない。
そんな予感が、はっきりとあった。
そのとき。
こん、と窓が鳴った。
陸翔は顔を上げる。
風ではない。
枝でもない。
窓硝子の外側に、小さな黒い羽根が貼りついていた。
鳥の羽根にみえる。
だが薄い金属片に、羽根の形を刻んだものだった。
セバスチャンの顔色が変わる。
「これは……」
エランテルが部屋へ戻ってきたのは、その直後だった。
彼女は窓の黒い羽根を見るなり、目を細めた。
「追跡魔術だ」
メーファが、喉の奥で短く悲鳴を漏らした。
「きた……」
陸翔は振り返る。
「誰が」
メーファは震える唇で、たった一言だけ答えた。
「マッド…」




