第14話 スラム街の子供
朝になっても、夢の感触は消えなかった。
黒い靄。
崩れていく王都。
六コスト【※舞 △※★ バル □□】の、楽しげな気配。
そして最後に浮かんだ、新しい目標。
【② スラム街にてピノ・メイファを保護せよ】
ピノ・メイファ。
名前だけでは何もわからない。
年齢も、性別も、立場も、顔も。
だが、探さなければならない。
◇
エランテルへの報告は、思ったより短く済んだ。
「夢で見た、か」
「はい。あと、システムに次の目標が出ました」
「内容は」
「スラム街で、ピノ・メイファという人物を保護しろ、と」
エランテルはしばらく黙っていた。
疑っているというより、考えている顔だった。
「スラム街か…」
その声には、わずかに苦いものが混じっていた。
「余り行きたくはないが…」
そう言って、彼女は剣帯を締め直した。
「行くぞ」
「え、今からですか?」
「目標が出たのだろう。放置する理由がない」
その判断は早かった。
同行するのはエランテルだけになった。
大人数で押しかければ、余計に警戒される。ましてスラム街では、兵の数が多いほど口は閉ざされるらしい。
陸翔はデッキを確かめ、小さく息を吸った。
また、何かが始まる。
◇
王都は美しかった。
少なくとも、中心部は。
石畳は磨かれ、店先には果物や布が並び、通りを行く人々の服もそれなりに清潔だった。
王城へ近づくほど建物は立派になり、噴水には水が流れ、花壇まで整えられている。
だが、そこから外れていくにつれて景色は変わった。
石畳の隙間が広がり、補修されない壁が目立つ。
店の看板は減り、代わりに閉ざされた扉が増える。
細い路地の奥からは、湿った臭いと、煮えたゴミのような臭いが漂ってきた。
「……ここから先だ」
エランテルが足を止めた。
そこには、王都の一部とは思えない光景が広がっていた。
家、というより小屋。
小屋、というより積み上げた板と布。
傾いた屋根。
割れた窓。
泥水の溜まった道。
人はいる。
だが、誰もこちらを歓迎していなかった。
痩せた男が壁際からこちらを見る。
子供が布の陰へ隠れる。
年老いた女が、抱えていた袋を胸元へ引き寄せる。
視線が刺さる。
何故こんな場所に来た。
そう言われているようだった。
「……すごい目で見られてますね」
「当然だ」
エランテルは前を見たまま答える。
「ここに来る兵士は、たいてい取り締まりか、誰かを連れていく時だけだ」
「助けに来るわけじゃないんですか」
「助けることもある」
少しだけ間が空いた。
「だが、全員は無理だ」
その言葉は重かった。
陸翔は周囲を見た。
中心部とは違いすぎる。
同じ王都の中なのに、まるで別の国みたいだった。
「ヴェルミの政策で、王都の中心部は潤った」
エランテルが低く言った。
「商業区の整備、貴族街への投資、外商の誘致。表側だけ見れば、王都は確かに豊かになった」
「でも、ここは……」
「逆だ」
彼女の声は淡々としていた。
だが、その奥にわずかな怒りがあった。
「金は流れやすい場所へ流れる。中心部が潤えば、周辺も潤う。そう唱える者もいる。だが実際には、押し出された者たちがここへ流れ込んだ」
家賃が上がる。
仕事を失う。
税が重くなる。
中心部にいられなくなった者が、端へ追いやられる。
「貧富の差は広がった。王都は豊かになったが、王都の全員が豊かになったわけではない」
陸翔は言葉を失った。
華やかな街の裏側。
世界崩壊なんて大きすぎる言葉より、目の前の泥と痩せた子供のほうが、よほど胸に刺さった。
◇
「ピノ・メイファという名前に心当たりは?」
エランテルが近くの男へ声をかける。
男は答えなかった。
ただ、目を逸らし、路地の奥へ消えた。
次に、店とも呼べない軒先に座る老婆へ尋ねる。
「ピノ・メイファという者を探している」
老婆は一瞬こちらを見た。
だがすぐに口を閉ざし、何も聞こえなかったように俯く。
その後も同じだった。
誰に聞いても、返事はない。
大体は逃げる。
「……これ、無理じゃないですか」
陸翔は小声で言った。
「名前しかわからない相手を、こんな場所で探すなんて」
「そうだな」
「冷静に言わないでくださいよ」
エランテルは一歩だけ足を止めた。
「冷静でいないと、余計に見つからん」
そこで、ほんのわずかに視線だけが陸翔へ向く。
「……だが、難しいという点には同意する」
「そこ、同意しなくていいんですけど」
思わず返すと、エランテルは何も言わず、また前を向いた。
けれど、さっきまでの沈黙よりは少しだけましだった。
どうしたものか。
そう思ったときだった。
路地の隅にあった、ぼろ布の塊が動いた。
「……え?」
最初は、捨てられた袋かと思った。
泥を吸い、布が乗っているだけの塊。
だが、それがかすかに震えた。
陸翔は反射的に駆け寄った。
「おい」
布をめくる。
中にいたのは、子供だった。
小さい。
十歳ほどだろうか。
頬はこけ、唇は乾き、髪は泥と汗で固まっている。
目は閉じているが、呼吸はある。
ただ、その呼吸はあまりにも浅かった。
「エランテル!」
陸翔は叫んだ。
エランテルがすぐに隣へ膝をつく。
子供の首元に指を当て、瞳を確認し、眉をひそめた。
「たぶん栄養失調だ。脱水もある」
「助けられますか」
「水と食事、寝床があればな」
その言い方に、陸翔は胸を撫で下ろしかけた。
だが、エランテルの表情は硬いままだった。
「ただし、こういう子供はここに一人ではない」
「……」
「全員は助けられない」
わかっている。
そんなことは、陸翔にもわかっている。
でも。
目の前で死にかけている子供を見て、仕方ないと言えるほど、自分はこの世界に慣れていなかった。
「何とかしたいです」
声が震えた。
「このまま放っておいたら、長くないんですよね」
「そうだ」
「なら、助けたい。助けられないですか?」
エランテルは黙って陸翔を見た。
その目は責めていなかった。
ただ、確かめていた。
「お前はそう言うと思った」
「……すみません」
「謝ることではない」
彼女は子供を抱き上げた。
痩せた体は、驚くほど軽かった。
「余裕があれば助ける。だが、この世界はそこまで甘くない。私が助けられる範囲にも限度がある」
淡々とした声。
けれど、そこで一度だけ言葉が止まる。
「だが」
エランテルは子供を抱え直した。
「目の前で死にかけている子供を、理由をつけて見捨てるほど落ちてもいない」
陸翔は息を呑んだ。
「屋敷へ連れて帰る。セバスチャンに介抱させよう」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。助かるとは限らないぞ」
◇
その瞬間、陸翔の手が無意識にデッキケースへ伸びた。
大天使の抱擁。
あれなら。
あのカードなら、毒も傷も疲労も古傷すら消した。
この子供だって救えるかもしれない。
だが、指が触れる寸前で止まった。
夢の光景が蘇る。
黒い靄。
脈打つデッキケース。
底から這い上がろうとする六コスト。
使えば、また近づく。
そんな気がした。
陸翔は歯を食いしばり、手を引いた。
「……使わないのか」
エランテルが静かに言った。
気づいていたらしい。
「はい」
「理由は」
「今、使ったら……あれが出てくる気がします」
エランテルの表情がわずかに険しくなる。
「あの六コストか」
「はい」
便利だから使う。
助けたいから使う。
それが間違いだとは思わない。
でも、今は違う。
大天使の抱擁は奇跡だ。
けれどその奇跡を使うたび、底にいる何かが近づくのなら。
何でもそれで解決してはいけない。
「だから、普通の方法で助けたいです」
「賢明だ」
エランテルは短く言った。
その声には、わずかに安堵があった。
「行くぞ。長居はできない」
「はい」
陸翔は子供を抱え、スラム街を出る道へ向かった。
◇
背中に、いくつもの視線が刺さる。
最初に来たときと同じ、疑いと警戒の目。
けれど、その中に別のものが混じっている気がした。
怒り。
羨望。
怯え。
そして、何かを探るような気配。
助けたのか。
連れていくのか。
人攫いなのか。
そんな声にならない感情が、肌にまとわりつく。
スラムの出口に差しかかった、その瞬間。
陸翔はふと足を止めた。
今までの視線とは違う。
もっと鋭い。
もっと濃い。
背中ではなく、首筋を直接撫でられたような感覚。
「……?」
振り返る。
崩れた建物。
薄暗い路地。
干されたぼろ布が風に揺れている。
誰もいない。
それでも、確かに感じた。
見られている。
息を潜め、こちらを測るように。
あるいは、値踏みするように。
陸翔は強烈な視線を感じた。




