第12話 大天使の抱擁
戦いは終わった。
盗賊団は壊滅し、スコーピオンキマイラも粉になった。
ムラクモは、礼を告げた途端に、最初からそこにいなかったみたいに静かに消えた。
なのに、終わっていなかった。
「ごふっ……!」
湿った音とともに、エランテルが血を吐いた。
「エランテル!」
白い鎧の隙間から赤がこぼれる。
片膝をつき、剣を地に突き立てて、どうにか倒れるのを堪えている。顔色は一気に悪くなっていた。呼吸が荒い。肩が上下し、さっきまでの鋭さが急速に失われていく。
毒だ。
ケリファのナイフに仕込まれていた遅効毒。
盗賊も魔獣も片づいたのに、こっちだけが残った。
陸翔は反射的に手札を見た。
【鈍足のオーガ】
【鈍足のオーガ】
【ゴブゴブテイラー】
【大天使の抱擁】
ある。
答えは、手の中にある。
けれど同時に、個人能力値の表示が胸の奥を冷やした。
【戦闘値 0/3/4】
「……っ」
足りない。
大天使の抱擁は五コスト。
残り魔力は四。
あと一。
たった一なのに、届かない。
「どうした!」
ファンガスが叫ぶ。
「あるんです!」
声が裏返る。
「助けるカードはある……でも、魔力が……!」
エランテルがうずくまる。
ミシェルが駆け寄ろうとするが、どう見ても毒には手慣れていない。リッキーも顔を強張らせたまま、唇を噛んでいる。
このままじゃ駄目だ。
どうする。
何か。
何か――
その瞬間、陸翔の脳裏に、稲妻みたいに一つの事実がよぎった。
「今日の、パック……!」
まだ引いていない。
戦場へ出る前から、今日はまだカードパックを開封していなかった。
もしここで能力値+が出れば、足りる。
たった一でもいい。いや、最低でも一。できればもっと。
「頼む……!」
陸翔は震える指で、インベントリを開く。
【第一弾『始まりの物語』 1/1】
押す。
その瞬間だった。
デッキケースの底が、どくん、と脈打った。
黒い靄が滲み出る。
「――っ」
ぞっとした。
夢で見たものと同じだ。底にいた、あの読めない六コスト。あれが、底から何かしてきている。
やめろ、と本能が叫ぶ。
でも、ここで止まったらエランテルが死ぬ。
陸翔は歯を食いしばり、そのまま開封を押し切った。
青白い表示が展開し――直後、黒い靄が文字列へ食い込んだ。
【※△エラー 廃棄されます】
【〇×エラー 廃棄されます】
【××エラー 廃棄されます】
「な……!」
次々と表示が潰れていく。
引いたはずのカードが、出た瞬間に黒に呑まれて消えていく。
邪魔されている。
理解した。
あれは、このシナリオを進めさせないつもりなんだ。
エランテルを死なせようとしている。
「ふざけるな……!」
黒い靄は、残った表示へも伸びようとしていた。
そのときだった。
デッキケースの中で、何かが光った。
柔らかい、けれど確かな光。
底から這い上がる黒に抗うみたいに、カードたちが一斉に淡く発光する。
オーガ。
ゴブゴブテイラー。
火の鳥。
コボルト。
ドラゴン。
ムラクモ。
今まで引いてきた札の気配が、一瞬だけ確かにそこにあった。
黒を押し返す。
青白い表示が、無理やりこじ開けられるように浮かび上がる。
【100ゴールド】
【能力値+5】
「出た……!」
息を呑む。
何とか、出た。
陸翔はほとんど反射で個人能力値を開いた。
【余剰値 5】
迷わない。
「全部、魔力に!」
数字が一気に書き換わる。
【戦闘値 0/3/9】
【余剰値 0】
届く。
今なら届く。
陸翔は残る手札へ手を伸ばした。
「大天使の抱擁――!」
カードが弾けた。
広場に、やわらかな金の光が降り注ぐ。
青白いシステムの光ではない。もっと温かく、もっと清らかな、朝焼けそのものみたいな光だった。
その中心に、一つの影が浮かび上がる。
翼だ。
純白でも、黄金一色でもない。
光そのものを羽へ変えたみたいな巨大な翼が、静かに広がっていく。その内側に立っていたのは、人の形をした何かだった。女にも男にも見える、整いすぎた顔立ち。長い髪が風もないのに揺れ、伏せたまぶたの奥から、慈悲だけが零れているように見えた。
天使だ、と陸翔は思った。
そうとしか言いようがなかった。
天使は何も言わない。
ただ、片膝をついたエランテルへ両腕を差し伸べる。
やわらかな光が彼女を包み込んだ。
「……っ」
エランテルの喉から、短い息が漏れる。
紫がかっていた唇の色が戻っていく。
荒れていた呼吸が静まり、脇腹の傷から滲んでいた血が、朝露でも引くみたいに消えていった。
それだけじゃない。
首筋、手の甲、指先。
長年の鍛錬で刻まれてきた細かな切創や、古い火傷の痕まで、光に撫でられたところからひとつずつ薄れていく。
毒も。
疲労も。
古傷も。
全部。
まるで最初から、何もなかったみたいに。
やがて天使は静かにエランテルを包み込み、そのまま光ごとほどけた。
あとには、何事もなかったかのように立つエランテルだけが残された。
視界の端で、デッキケースの底がもう一度どくんと脈打った。救えた代わりに、あれは近づいた。
広場が、しんと静まり返る。
リッキーも、ファンガスも、ミシェルも、息を呑んだまま動けなかった。
エランテルはゆっくりと自分の手を見る。
開く。
握る。
脇腹へ触れる。
血はない。
痛みもない。
毒に蝕まれていた鈍さも、苦しさも、完全に消えていた。
「……おい」
低い声だった。
けれど、わずかに震えていた。
「はい」
「今のは、お前がやったのか」
「……はい」
陸翔は乾いた喉を鳴らした。
「大天使の抱擁、ってカードです。引いてたんですけど、魔力が足りなくて……だから、今日のパックを無理やり開けて、能力値を……」
全部言い切る前に、エランテルが一歩近づく。
怒られる。
そう思った。
勝手にパックを開けたこと。
戦場で高位の札を使ったこと。
報告していなかったこと。
責められる理由はいくらでもある。
だが、エランテルは責めなかった。
ただ、まっすぐに陸翔を見る。
いつものように“監視対象”を見る目ではない。
危険物を見る目でもない。
初めてそこに、“神崎陸翔”という個人を置くみたいな視線だった。
「……借りができた」
短い言葉だった。
けれど、その重さは陸翔にもわかった。
「命を救われた以上、私はそれを忘れない」
嘘ではない。
義を重んじる人間の、本気の声音だった。
陸翔は、どう返していいかわからなかった。
エランテルが死ぬのを見過ごせなかった。
助けたかったから助けただけだ。
「……よかったです」
やっと出た言葉は、情けないほど素朴だった。
エランテルは一瞬だけ目を細め、それから広場に転がる死体と、静まり返った戦場を見渡した。
「だが」
低い声が続く。
「この件を、国へどう報告するかは別だ」
その一言で、空気がまた引き締まる。
当然だった。
これはもう、ただの“カードが使える異邦人”の範囲を超えている。
命を救う高位の札。
それを個人ランク1の陸翔が使った。
報告すれば、また陸翔は危険視されるかもしれない。
だが黙って抱えるには規模が大きすぎる。
エランテルの横顔には、はっきりと迷いが出ていた。
陸翔はその表情を見て、少しだけ胸が痛んだ。
助けたかっただけなのに、また厄介を増やしてしまったのかもしれない。
けれど少なくとも、いまのエランテルは陸翔を“異物”としてだけ見てはいなかった。
そのことだけは、なぜかはっきりわかった。
【シナリオ達成:エランテルの死亡を阻止せよ】
【願いの欠片を獲得しました】
【王国壊滅を防げ(1/10)②が解放されました。】
◇
廃村の外れ。
崩れた石塀の陰に身を潜めながら、ケリファは自分の肩を抱いていた。
震えている。
恐怖ではない。
興奮だった。
「あ、は……」
喉の奥から、笑いが漏れる。
見た。
見てしまった。
あの子。
あの異邦人。
壊れかけた箱みたいな嫌な匂いをさせていたくせに、その中身はもっとひどかった。
ランク4の刃。
ランク5の奇跡。
それを、あの細い体の中へ抱え込んでいる。
「なにこれ……」
唇が吊り上がる。
「楽しい……!」
抑えきれない。
胸の奥がぞわぞわと泡立つ。
今まで見てきたどんな悲鳴より、どんな死に顔より、どんな壊れ方より、ずっと面白い。
「すごい……すごいすごい……!」
ケリファは肩を震わせた。
「こんなの初めてだわ……!」
ようやく見つけた。
ずっと探していたのだ。
退屈なこの世界を、ひっくり返してくれる何かを。
壊す側にも、壊される側にも収まらない、とんでもなく面白い“何か”を。
「見つけた」
口元を押さえても、笑いが止まらない。
「ついに見つけた……!」
そして次の瞬間、堪えきれなくなったみたいに、ケリファは夜の廃村で高く笑い声を上げた。
「あはははははははははっ!!」




