第11話 刀星ムラクモ
【刀星ムラクモ】【大天使の抱擁】を引けた。
「――!」
その瞬間だった。
一時休戦の白い拘束が、音もなくほどけた。
止まっていた世界が、いきなり元へ戻る。
耳に、戦場の音が一気に流れ込んできた。
スコーピオンキマイラの唸り声。
ゲレゲルの怒鳴り声。
剣とナイフのぶつかる音。
荒い呼吸。
血の匂い。
陸翔の体も、ようやく動いた。
考えるより先に、手が伸びる。
「刀星ムラクモ!」
カードへ触れた瞬間、青白い光が鋭く裂けた。
風が止まる。
いや、風だけじゃない。
戦場そのものが、一瞬だけ息を呑んだように見えた。
陸翔の前に、ひとりの老人が立っていた。
和服だった。
飾り気のない、墨を落としたような黒い着流し。腰には一振りの刀。背は高くない。痩せてもいないし、巨躯でもない。ただ、静かに立っているだけの老人だった。
髪は白い。
顔には深い皺がある。
なのに、その立ち姿には少しの衰えも見えなかった。
そして、その背後。
ゆらゆらと、怪しげな靄が立ちのぼっていた。
煙のようにも見える。
怨念のようにも見える。
それは老人の背中から滲み出ているのに、老人自身はまるで意に介していない。
ただ、そこに立っているだけで、あきらかに“ただ者ではない”とわかった。
広場の向こうで、ケリファの顔色が変わった。
初めてだった。
あの女が、はっきりと表情を崩したのは。
「あ、は……?」
笑いとも息ともつかない声が漏れる。
その目が、老人を見たまま見開かれる。
「……いやだ」
次の瞬間、ケリファは躊躇なく身を翻した。
逃げた。
それも、戦いの流れを読むための後退なんかじゃない。全力の逃走だった。
瓦礫を蹴り、崩れた壁を飛び越え、振り返りもせずに距離を取る。
あの余裕も、妖艶な笑みも、全部かなぐり捨てて。
「待て!」
エランテルが叫ぶ。
だが、その声すらもう遅かった。
スコーピオンキマイラが、陸翔へ飛びかかる。
蠍の尾を振り上げ、牙を剥き、三つの目をぎらつかせた魔獣は、さっきまでと変わらない勢いでこちらへ迫ってきていた。
ムラクモは、まだ刀を抜いていない。
間に合わない。
そう思った。
次の瞬間。
老人の親指が、かちり、と鍔を鳴らした。
白い閃きが、一筋。
それだけが広場を横切った。
スコーピオンキマイラの巨体が、空中で止まる。
一拍遅れて、全身へ細かな亀裂が走った。
そのまま、粉になった。
「……え?」
誰かが、呆けた声を漏らす。
裂けた、のではない。
断たれた、のでもない。
巨体そのものが、存在を保てなくなったみたいに崩れ、灰と肉片へほどけて消えた。
カードの文面そのままの、理不尽な一太刀だった。
「ば、化け物……!」
盗賊の一人が悲鳴を上げる。
だが次の瞬間、ゲレゲルが顔を引きつらせながら怒鳴った。
「何してやがる! 囲め! あのガキを殺せ!」
命令を受けた盗賊どもが、半ば悲鳴まじりに陸翔とムラクモの間へ雪崩れ込んだ。
逃げたいのに、逃げればあとでゲレゲルに殺される。そんな顔だった。
ムラクモは、そこで初めて一歩だけ前へ出た。
今度は効果ではない。
ただの剣だ。
ただし、ランク4の存在が振るう“ただの剣”だった。
最初の一人の首が飛ぶ。
二人目の腕が宙を舞う。
三人目は抜いた鉈ごと胴を断たれた。
見えたのは、その程度だった。
実際には、もっと斬っていたのだろう。
道を塞いでいた盗賊たちだけが、遅れて血を噴いて崩れ落ちる。
「ひっ……!」
「に、逃げろ!」
悲鳴が広場のあちこちで上がる。
だが、ひっくり返ったのはそこからだった。
「押し返せ!」
ファンガスが吠え、正面から盗賊を叩き伏せる。
ミシェルが路地へ走り、逃げ道へ回り込む。
リッキーの剣が、腰の引けた一人の足を払った。
キマイラが消えたことで、戦線が一気に崩れた。
統率を失った盗賊団は、もう第七警邏の敵ではない。
それでも、ムラクモは雑魚を追わなかった。
ただ一人。
まっすぐ、ゲレゲルへ歩いていく。
「ま、待て! 待て待て待て待て!」
脂汗をだらだら流しながら、ゲレゲルが後ずさる。
さっきまでの下卑た余裕は、もうどこにもなかった。
「お、俺は悪くねぇ! 全部あの女が――」
そこまでだった。
ムラクモが、いつの間にかゲレゲルの背後に立っていた。
老人は何も言わない。
振り向きもしない。
ただ静かに、刀を収める。
どさり、と首が落ちた。
盗賊頭ゲレゲルは、最後まで何が起きたのか理解できない顔のまま、地に伏した。
広場が、しんと静まり返る。
残ったのは、濃い血の匂いと、戦場の主導権が完全に入れ替わったという事実だけだった。
陸翔は、動けなかった。
助かった。
助かったはずだ。
でも、それ以上に、いま自分が何を呼んだのかが怖かった。
ムラクモはゆっくりと振り返る。
皺の刻まれた顔は、どこまでも静かだ。
勝利の高揚もない。
敵意もない。
ただ、終わった仕事を確認するみたいに、戦場を一瞥しただけだった。
その背後の靄だけが、まだゆらゆらと怪しく揺れている。
陸翔の喉が乾いた。
「……あ、りがとう」
やっとのことで絞り出した声は、情けないほどかすれていた。
「助かった」
ムラクモは答えない。
けれど、その沈黙は拒絶でも無視でもなかった。
老人はほんのわずかに視線を下ろし、それから何事もなかったみたいに輪郭を薄くした。
気づけば、靄ごと静かにほどけていく。
光になって消えるのではない。
最初からそこにいなかったみたいに、ただ、帰るべき場所へ戻るように消えた。
「……勝手に、帰った」
呆然と呟く。
怖かった。
だが同時に、妙に納得もした。
あれはたぶん、礼を言われたから帰ったのだ。
陸翔がもう助かったと告げたから、それで役目を終えたのだと、自分だけはなぜかそう思えた。
そのときだった。
ごふっ、と湿った音がした。
振り向く。
エランテルが、血を吐いていた。
「エランテル!」
白い鎧の隙間から、赤が垂れる。
片膝をつき、剣を地に突き立てて、どうにか倒れるのをこらえている。
呼吸が荒い。
顔色が、さっきまでとは比べものにならないほど悪い。
毒だ。
ケリファのナイフに仕込まれていた、あの遅効毒。
盗賊団は壊滅した。
キマイラも消えた。
それでも、これで終わりじゃない。
陸翔の胸の奥が、一気に冷えた。
戦いは勝った。
だが、エランテルはまだ死地の中にいた。




