第10話 最悪の初手
広場の空気が、金属音と悲鳴で裂けた。
エランテルの剣とケリファのナイフがぶつかるたび、火花が散る。正面から見れば、押しているのは明らかにエランテルだった。踏み込みは鋭く、剣筋は重い。ケリファは笑いながらそれをいなし、身を翻し、瓦礫の上へ、崩れた壁の影へ、するりと逃げていく。
「そんな怖い顔しないでよ」
ケリファは細身のナイフをくるりと回し、妖艶に笑った。
「せっかく遊んでるんだから」
「遊びで済ませるには、被害が大きすぎる」
エランテルの声は低い。
その一歩が、確実にケリファを追い詰めていく。
――勝てる。
一瞬、そう思った。
だが次の瞬間、地を這うような甲高い唸りが響いた。
スコーピオンキマイラだ。
蠍の尾を高く掲げ、獣の胴をしならせ、広場の中央を一直線に駆け抜けてくる。狙いは陸翔ではない。いや、正確には――陸翔を含む、後衛の薄いところすべてだ。
「止めろ!」
ミシェルが真っ先に動いた。
横合いから踏み込み、剣を低く振るう。ほぼ同時にファンガスが正面へ出て、リッキーも横から切り込んだ。
三人がかりだ。
訓練場で散々見てきた三人の動きは、実戦ではさらに鋭かった。ミシェルの一撃は無駄がなく、ファンガスの踏み込みは壁みたいに重く、リッキーは身軽に死角へ潜ろうとする。
それでも。
スコーピオンキマイラは止まらなかった。
「っ!」
ミシェルの剣が爪で弾かれる。
ファンガスが正面から受け止めたはずの突進が、紙みたいに押し切られる。
リッキーの斬撃は胴へ入る寸前で尾に払われ、そのまま三人まとめて吹き飛ばされた。
「ミシェル! ファンガス! リッキー!」
声が出たときには、もうスコーピオンキマイラの影が目の前に迫っていた。
速い。
速すぎる。
足がすくむ。
訓練で鍛えたはずの体が、恐怖で一瞬だけ動かない。
――使うな。
エランテルに言われた言葉が頭をよぎる。
なるべく使うな。
能力なしで物になるように鍛える。
そんな理屈はわかっている。
わかっているが、目の前に三コストの魔獣が突っ込んできている状況で、素手と木剣だけで何ができる。
「エンゲージ!」
叫ぶように唱えた。
デッキケースが浮き、青白い光が弾ける。
五枚の手札が、目の前へ展開した。
「……は?」
思わず、目を疑った。
【簡易プロテクション】
【一時休戦】
【鈍足のオーガ】
【鈍足のオーガ】
【ゴブゴブテイラー】
最悪だった。
鈍足のオーガ二枚。
ゴブゴブテイラー一枚。
簡易プロテクション。
一時休戦。
「嘘だろ……」
口の中が乾く。
無理だ。
こんなのでどうしろというんだ。
攻め札がない。
まともな打点がない。
しかもドローは三分後。魔力は十あるが、手札がこれでは意味がない。
スコーピオンキマイラが跳ぶ。
考えるより先に、陸翔はカードへ触れていた。
「簡易プロテクション!」
青白い膜が、陸翔の周囲へ展開する。
透明な壁みたいなそれが、自分を包んだ瞬間――キマイラの爪が叩きつけられた。
轟音。
視界が揺れる。
「ぐっ――!」
だが、次の瞬間には理解した。
耐えた、のではない。
壊されたのだ。
青い膜は一撃で砕け散り、光の破片になって消えた。
簡易プロテクションのシールド値は三。
スコーピオンキマイラの攻撃は、ちょうどそれを叩き割る三だった。
「一発で……!」
喉が引きつる。
次はない。
次をもらえば、たぶん終わる。
キマイラが低く唸る。
尾の毒針がぎらりと光った。
もう一度飛びかかってくる、その寸前――陸翔は残る札へ手を伸ばした。
「一時休戦!」
カードが白く弾ける。
その瞬間、世界が止まった。
正確には、陸翔とキマイラの間だけが、奇妙に切り取られたみたいに動きを失った。
飛びかかる寸前だったキマイラの姿勢が、そのまま固まる。
陸翔の体も、前に出しかけた足ごと凍りついたように動かない。
白の帯が巻き付いているようだった。
「な……っ」
息だけがどうにかできる。
目だけは動く。
それで十分だった。
「ほらぁ!」
下卑た叫びが飛ぶ。
ゲレゲルだ。
肥えた体を揺らしながら、離れた位置からどす黒い魔力の塊を投げつけてくる。魔導の心得があるのか、ただの粗悪な呪具かはわからない。だが攻撃であることだけは明白だった。
黒い塊が陸翔へ直撃する。
――なのに、痛みは来ない。
弾けた魔力は膜みたいなものへ吸われ、そのまま空中で散った。
一時休戦。
お互いの行動を封じ、ダメージも一切受けない。
「効いてない!?」
ゲレゲルが吠える。
その横で、ケリファが喉の奥で笑った。
「あは。面白い札」
だが、その視線は陸翔ではなく、別の方向へ向いていた。
エランテルだ。
陸翔へ意識を向けた、その一瞬の隙を、ケリファは見逃さなかった。
崩れた壁の陰へ流れたと思った次の瞬間、すでに間合いの内側へ入っている。
細身のナイフが、白い鎧の脇へ滑り込んだ。
「っ……!」
浅い。
致命傷ではない。
けれど、エランテルの動きがほんのわずか止まった。
ケリファは、笑っていた。
「入った」
その声音に、ぞっとする。
「なにを……!」
エランテルが距離を取ろうとする。
だがケリファは深追いせず、瓦礫の上へ軽やかに跳んだ。
「別に大したものじゃないわ。ちょっとだけ鈍くなるだけ」
ナイフの先を舐めるみたいに見つめ、うっとりと笑う。
「遅効毒っていうの。すぐには死なないの。だからいいのよ」
エランテルの剣先がぶれる。
ほんの少し。
だが、陸翔の目にはそれがはっきり見えた。
呼吸も浅い。
踏み込みも、さっきまでより遅い。
「あら、丈夫なのね?」
ケリファが楽しげに首を傾げる。
「でももう無理じゃない?」
その言葉が、陸翔の頭へ突き刺さった。
――エランテルの死亡を阻止せよ。
シナリオ進行度に浮かんだ、あの文字。
最初の目標。
「このことか……!」
喉から絞り出すように声が漏れた。
これだ。
これが、エランテルが死ぬ未来の始まりなんだ。
毒。
鈍る動き。
ランク3同士の戦いの中で生まれる、たった一瞬の綻び。
目の前のキマイラは一時休戦で止まっている。
だがそれも永遠じゃない。
手札は残り三枚。鈍足のオーガ二枚とゴブゴブテイラー。これでどうにかなるわけがない。
エランテルを助けるには、次のドローに賭けるしかない。
あと二十七秒。
あと十五秒。エランテルの剣先が、もう一度だけ遅れた。
あと五秒――。
動けないまま、陸翔は歯を食いしばった。
ケリファのナイフが閃く。
エランテルが受ける。
だが遅い。間に合ってはいる。けれど、間に合っているだけだ。
ミシェルがよろめきながら立ち上がろうとする。
ファンガスも膝をつく。
リッキーが血の混じった咳を吐きながら顔を上げる。
誰も、すぐには届かない。
「来い……」
陸翔は呟いた。
祈るように。
呪うように。
「頼むから、来い……!」
時間がやけに遅い。
その間にも、エランテルの呼吸は荒くなっていく。
ケリファは楽しそうに笑い、ゲレゲルは一時休戦の向こう側から汚い声で喚き散らしている。
あと少し。
あと少しで、ドローだ。
青白い光が、デッキケースの底で小さく脈打った。
来た。
次の瞬間、手札の欠けた二枚ぶんを埋めるように、新たなカードが滑り出る。
陸翔は目を見開いた。
【刀星ムラクモ】
【大天使の抱擁】
五枚になるように補充された手札の中で、その二枚だけが、明らかに空気を変えていた。




